驚天動地するNLL(北方境界線)対話録論争に接しながら改めて感じることは、美しさと醜さは紙一重の差だという点だ。 少し観点を変えただけでも同じ事件の崇高な話が汚く淫らな話に急変する。次の事例を見よう。
朴槿恵(パク・クネ)大統領は韓国未来連合代表時期の2002年5月に金正日委員長の招請で平壌(ピョンヤン)を訪問した。中国北京に特別機まで送って朴代表を迎えた金委員長は、十分に破格と言えるほどに3泊4日間手厚く歓待した。 「話法と態度が印象的」であったという金正日は、当時朴代表が要求した離散家族面会所設置、南北鉄道連結、統一サッカー競技再開を全て受け入れた。 「(7・4共同声明を発表した南北指導者の) 2世として平和定着に努力しよう」という朴代表の言葉に金委員長も「そうしよう」として同意した。 帰国の途、金委員長は「あえて遠い道(中国経由)で戻る必要があるか。 板門店を通って行け」と提案し、朴代表は車でソウルに来た。 朴代表は「帰りの車の中で‘南と北がこのように近いのに、遠い道を互いに背を向けて行き来しているんだな’と考えて、統一に対する念願がより一層切実になった」と自叙伝で書いている。 その年の9月に感激的な南北統一サッカー大会が国民皆の歓呼の中で韓半島旗があふれんばかりに翻る上岩洞(サンアムドン)ワールドカップ競技場で開催された。
国民皆に微笑を浮かべさせる美しい話だ。 ところでこの話を他の観点で展開してみよう。 金正日が誰か。 1972年2月に後継者として登場した金正日の初めての作品は、その年8月光復節記念式で陸英修(ユク・ヨンス)氏が狙撃された事件、すなわち朴正熙大統領暗殺試図だと知られている。 すなわち当時朴代表は父親を殺そうとし、実際に母親を殺害した家族の敵と初めて会った席で何ともないように明るい表情で対話した。 果たしてどんな心理状態で、何の意志でこうすることが可能だったのだろうか?
その年の6月末にワールドカップが終わり、極度に疲れている国家代表選手を再び抽出して北韓とのサッカー競技をするということにサッカー協会は驚いた。 しかし朴代表の強圧に押され、やむをえず大会が準備された8月に朴代表はチョン・モンジュン サッカー協会長を清潭洞(チョンダムドン)の中華料理店に呼び、「統一サッカーは私が北韓から持ってきた成果物なのに、サッカー協会はなぜ準備事項を私に報告しないのか」と要求した。 国家代表競技はサッカー協会の所管なのに、自身があらゆる事を主導しようとする朴代表のゴリ押しであった。 一方、9月の上岩(サンアム)競技場でのことをチョン・モンジュン議員は自叙伝で次のように書いている。
「朴前代表が先に競技場に来ていたが、私を見て怒った顔でなぜ約束を守らないのかと言った。 何のことかと思ったところ、観衆が韓半島の旗を持つことにしたのに、なぜ太極旗を持ったのかということだった。 問題がまたできた。 サッカー競技の開始前に赤い悪魔が ‘大~韓民国’ を叫んだからだ。 朴前代表はスローガンとして‘統一祖国’を叫ぶことにしたのに、どうして約束を守らないのかとまた私に抗議した。」
まさにこれだった。 サッカー協会の業務に干渉しようとした理由が。 それまでの統一に向けた崇高な姿が、北韓の好みに合わせようと焦る卑屈な姿に急変する。 その年にハンナラ党を離党しながらも大統領選挙に対する夢をあきらめなかった朴代表は、敵とも手を握る冷酷な権力意志の化身だった。 どうだろうか? 美しかった話が全く別の異常な話に変わらないか? 盧武鉉前大統領を二度殺した朴槿恵政府は、対話録の事実関係を歪曲してまで公開してしまうという問題を起こした。 そうしておいて民生が重要だと言うのだ。 美しい花畑を踏みにじっておいて、行ってしまった後には腰が折れた花が悲鳴をあげている。 まさにこういう方法で私たちの崇高さが凄惨に踏みにじられた。
キム・ジョンデ<ディフェンス21プラス>編集長