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[このひと] 日本に‘潜り’教えた済州海女 忘れないで

原文入力:2010-09-23午後11:06:17(1527字)
済州海女の日本移住史を伝えるパク・コンチ氏

キル・ユンヒョン記者

←パク・コンチ氏

1920年代に移住し潜水技術を伝授
和田浦 地域経済に痕跡残す

 "済州道の海女たちがこちらにきて、日本人に潜水技術を教えました。そのような事実を記憶する人々がどれほどいるでしょうか?"

日本、千葉県、南房総市の漁村、和田浦で先月会ったパク・コンチ(64・写真)氏は在日同胞2世だ。彼の父親・パク・キマン氏(1970年死亡)は1920年代に新しい暮らしを求めて日本に渡っていった数多くの済州道出身労働者の一人だった。パク氏は「父が初めて日本にきた時は、日本で大きな事業をすると野心に充ちてきたが、ここに到着してからは することがなく魚の仕事でもしなければならないと考えたようだ」と話した。

当時、朝鮮青年パク・キマンの目を惹きつけたのは故郷の済州道ととてもよく似ていた和田浦の海だった。こちらの海は済州道のように暖かく、アワビなどの海産物も多かった。しかし大きな差があった。日本には‘海女’がいなかったのだ。

パク・キマンは故郷へ行き済州海女12人と彼らの家族40人余りを移住させた。海女12人はこちらへ移住しアワビを獲り日本女性たちに済州海女の専売特許である潜水技術を教えた。もう彼らの大部分は亡くなり、残った1世代海女は90代の‘ヤン氏ハルモニ’1人しかいない。

千葉県、南部地方の昔の地名である‘安房地方’の歴史を研究する市民団体‘安房文化遺産フォーラム’が調査した資料によれば、和田浦の隣村 鴨川市江見町の曹洞宗系列の寺刹 長興寺には1920年代に移住した海女と家族たちの墓20余基がある。パク・キマンの墓碑には‘済州道水産業開拓先覚者’という文と彼の故郷‘韓国、済州道リャン面’が刻まれている。
こちらへ移住した海女と推定されるイ・某の墓(墓碑には‘アライ家の‘墓’と表記されているので、日本に帰化して得た姓と推定される)には、2003年6月17日 87才で亡くなったという記録と共に「海に潜った。子供たちを愛して暮らした」と記されている。

パク氏は 「海女の仕事は本当に厳しい仕事」としながら「男たちは女たちより寒さに弱く、むやみに海に入ることはできない」と話した。「アワビを獲ろうとすれば10mは水の中に入り息を3分もこらえなければなりません。男たちは根性がなくてできません。この海で済州海女たちがアワビとさざえを獲りワカメや海苔を採取し子供たちを教育しました。」パク氏は済州海女たちの潜水技術について行けず心臓まひで亡くなった日本人も多かったと伝えもした。

済州海女たちの日本移住史は往事となってしまったが、彼らの痕跡は地域経済に大きな足跡を残した。和田浦で獲れる自然産アワビは1㎏1万円の値をつける高級品で、日本でも指折り数えられるブランドとして通用する。そのため技術が良い潜水婦たちは夏の一時期に潜りをして1千万円(1億4千万ウォン余り)もの収入を上げる。パク氏は 「こちらへ移住した海女の孫たちが30~40代になり、4世たちが村に住んでいる」として「日本に渡ってきて海に潜り熱心に暮らした海女ハルモニたちがいたという事実を故国の人々が記憶してくれたらうれしい」と話した。

和田浦/文 キル・ユンヒョン記者、写真キム・テヒョン記者 charisma@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/440740.html 訳J.S