「負傷した子ども、生き残った家族なし」(WCNSF:Wounded Child No Surviving Family)
「国境なき医師団日本」の中嶋優子会長(救急医学科、麻酔科専門医)は、ガザ戦争初期の昨年11月に約3週間、ガザ南部の都市ハンユニスのナセル病院で活動していた時に、この用語の記された書類をよく目にした。以前にはなかった略語を医療スタッフが新たに作って用いるほど、生存している家族がいない、そして負傷した子どもが多かった。病院の収容人数(300~400床)の3倍を超える患者をみた。そのうえ、病院は停電が頻繁に起き、人工呼吸器と心電図検査の機械も1台だけだった。手術は携帯電話の明かりが頼りだった。「下半身切断手術が必要な10歳の少女には家族がいなかった。手術に同意してくれる家族がいない子どもたちをよく見た。その度に『私たちがこの命を救ったとしても、この子たちはどうなるのだろう』とよく思った」と述べた。現在、ガザ地区にある36の病院のうち、20院が運営を中止している。
ハンギョレは9月に、昨年10月7日のガザ戦争勃発以降、ガザ地区で活動してきたセーブ・ザ・チルドレンと国境なき医師団に所属する医療スタッフ・活動家8人に対して書面インタビューをおこなった。彼らは一様に、この1年間にパレスチナのガザ地区で目撃した惨状を証言した。南スーダン、タンザニア、イエメン、イラク、ウクライナなどの現場経験を持つという「救援のベテラン」たちにとっても、この1年間のガザは「過去最悪の」(セーブ・ザ・チルドレンのピーター・ウォルシュ)現場であり、「熱せられた石の上に落ちた一滴の水のような」(国境なき医師団のカトリーヌ・グラッツ・ブルーバーク)挫折を感じさせた。「うそはつかない。大変な闘争だ。肉体的生存だけでなく精神的、情緒的に平常心を保つための毎日が戦闘のように感じられる」(セーブ・ザ・チルドレンのヤスミン・スス)
「ガザの目撃者たち」は、人がすぐに死んでいく爆撃だけが問題なのではないと強調する。戦争であらゆる社会インフラと公共システムが崩壊したガザ地区では、十分に助けられる人々が死んでいっていると口をそろえる。パレスチナ人のセーブ・ザ・チルドレンのメディア責任者、ヤスミン・ススは「爆撃後、(医療システムが崩壊し)叔父とおいが人工透析を受けられず死亡した。親戚の60代の女性は、深刻な恐怖と不安、ストレスと栄養不足で突然心臓が止まった。彼らの死は爆発のせいではない」と強調した。
この1年間、ガザは人がとうてい住めない残酷な環境となり、彼らも精神的ショックを受けていた。「親のいない子どもたちが街頭の腐ったゴミの山をあさり、食べ物を探していた」(セーブ・ザ・チルドレンのベッキー・プラット)、「学校は破壊され、難民のための空間として利用されている。親たちは子どもに教育を提供する余力どころか、子どもを保護する方法もわからない」(ヤスミン・スス)、「老人と障害のある子どもがいる人たちは、家を出ることさえできない。親のいない5~6歳の少女が、1人で生き残るために自身の体より大きな水筒を持ち歩く姿をよく見かける」(セーブ・ザ・チルドレンのレイチェル・カミングス)、「家に爆弾を落とされた5歳の少年は、父親の死を目撃した。自分も片足を失い、もう片方の足は部分的にまひしている。誰とも相互作用せず、とても痩せ細っていたあの子を思い出す」(カトリーヌ・グラッツ・ブルーバーク)。
セーブ・ザ・チルドレンのサーシャ・マイヤーズは、妻と3人の子、両親をすべて失い、息子が1人だけ生き残ったという1人の男性の絶叫が忘れられないと語る。マイヤーズは「ガザにいる間、胸の痛む恐ろしい多くの話を聞いたが、あの男性の深い喪失感、寂しさを語るのを聞くのが本当につらかった。ガザのことは永遠に私の中に残るだろう」と述べた。ブルーバークは「12歳くらいの子が悲鳴をあげながら、看護師が打とうとしている静脈注射を拒否していた。その子の父親がそばにいたが、彼も不安そうだった。父親が『私たちは家族で唯一の生存者』だと言った時、ようやくすべての状況が理解できた。子どもたちがトラウマを抱えないようにすることがどれほど重要かを悟った」と語った。
イスラエルは救援団体に対する攻撃もためらわないため、彼らもガザ地区で持ちこたえることは難しかった。救援業務の現場チーム長役のカミングスは、人道支援物資の搬入ルートだったエジプトと接するガザ地区南端のラファの検問所が今年5月に閉鎖されたことで、状況はよりいっそう厳しくなったと語る。「(支援物資の)供給ルートが大きく制限されているため、住民に対する物資とサービスの提供は困難が伴う。また、職員も安全とセキュリティーの問題で移動が難しい」として、「私たちにできるのは、ここで必要とされることのごく一部に過ぎなかった」と述べた。「勤務で最もつらかったのは、重傷を負った子どもたちに適切な鎮痛剤が与えられず、子どもたちが苦しんでいるのを見ながら治療した時」だとプラットは語った。
救援団体は「トラウマを懸念して」、救援担当者を通常1、2カ月ほどで交代させるとことを原則としている。しかし、そのような短い期間であっても、頻繁に非常に危険な目にあったという。中嶋は「ガザ地区にいる間、ドローン(無人機)と空爆の音がずっとしていた。私がいたのはわずか3週間だったが、ガザの住民たちは脱出する場所もなく、常にその音を聞いていなければならない。ガザにいる間、だんだんと気が重くなっていった」と語った。ウォルシュは、イスラエルがラファで人質救出作戦をおこなった今年2月11日、救援隊員のいる建物のすぐ近くのモスクがイスラエル軍に爆撃されたと語った。「3階建ての建物の15ある部屋の窓がすべて落下し、私たちはみな『ガラスのシャワー』を浴びた。私たちは(治療を受けていた)子どもたち、家族と一緒に爆撃がやむのをひたすら待ちながら、3時間も廊下に伏せていた」と話した。
「ガザに最も必要なことは何か」と問うと、8人全員が「休戦」だと述べた。教育の中断は、明らかにガザの地域社会に非常に長期的で致命的な影響を残す。すべてのガザ住民が元の生活を取り戻すまでには長い時間がかかるだろう。しかし、これらはすべて休戦が実現してはじめて可能となる。
「ガザ地区の再建には、少なくとも1世代はかかるだろう。最も急がれるのは水と食糧、良い衛生条件と安らげる場所、物理面と心理面での健康管理だが、根本的に必要なのは恒久的休戦だ」(ピーター・ウォルシュ)
「あらゆるものが破壊された。あらゆるものが必要だ。人口も減ってしまったため、それを回復するのは非常に難しい」(国境なき医師団のパレスチナ人医師、ムハンマド・アブ・ムガイシブ)
「ガザ地区で生きるということがどういうことなのかを直に経験しない限り、本当に理解できる人はいないだろう。どんな子どもも、空から爆弾が落ち、続くものは唯一恐怖だけという世界で成長してはならない。私たちはただ生きたいだけだ」(ヤスミン・スス)
「ガザの人々は私たちに、国に帰ったらガザでどんなことが起きているかを伝え、自分たちを忘れないでほしいと訴えていた。戦争の中で生きている人々を『自分たちとは違う人間』だと考えてはならない。みな同じ『人間』なのだ」(中嶋優子)