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「佐渡鉱山は朝鮮人の墓…目撃した死者だけでも4人」強制動員生存者の追加証言を確認

登録:2022-08-16 02:19 修正:2022-08-16 10:03
「飯は5分で…いつも腹をすかせていた」 
「自分が死を確認した人だけでも4人」 
「3交代はしんどくて逃げ出したかった」 
佐渡の市民ら「歴史を蘇らせる」 
朝鮮人400人の煙草配給名簿を糸口に 
生存者を捜しに訪韓し、証言を集める
佐渡鉱山周辺には80年あまり前の朝鮮人労働者の生活の痕跡がまだ残っている。写真は鉱山裏の空き地の石積み。朝鮮人労働者の食堂跡だ。案内板一つなくひっそりとしている=佐渡/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 新潟までは東京駅から上越新幹線で2時間。新潟からさらに快速船に乗って北西に1時間行くと佐渡島に着く。済州島の半分の大きさ(854.5平方キロメートル)のこの島は、日本では沖縄に次ぐ大きさをもつ島だ。先月23日に本紙の取材陣が訪れた佐渡島の両津港には「祝世界遺産推薦決定、佐渡島の金山」という大きな横断幕がかかっていた。

 この島にある相川金山(佐渡金山)は、江戸時代(1603~1867年)に日本最大の金の生産地として名をはせた。太平洋戦争(1941~1945)が始まると金山の機能は変化する。金だけでなく軍事物資として必要な銅、亜鉛、鉛などが集中的に採掘されはじめたのだ。人手不足を埋めるために、植民地だった朝鮮から1500人あまりの朝鮮人労働者が、三菱鉱業が経営する佐渡鉱山に動員された。

 鉱山周辺には、80年あまり前の朝鮮人労働者の生活の痕跡が残っている。鉱山の裏の空き地に石積みがある。朝鮮人労働者が毎日食事していた食堂の跡だ。今は案内板一つなく物寂しい姿で放置されている。さらに奥に入っていくと、今は別の建物が建てられているが、かつては朝鮮人労働者にたばこを配給したり、彼らが望む送金などの郵便業務を処理していた場所がある。

1995年12月1日に佐渡の市民が主催した「『戦後50年』佐渡鉱山で働いた韓国人を迎え証言を聴くつどい」。右から、佐渡鉱山の朝鮮人生存者であるノ・ビョングさん(当時72歳)、ユン・ジョングァンさん(当時73歳)=過去・未来―佐渡と朝鮮をつなぐ会提供//ハンギョレ新聞社

 日帝強占期当時、この建物で働いていた富田毅さん(故人)が、地元郷土史家の本間寅雄さんに、自分が保管していた「朝鮮人煙草配給名簿」を渡したのは1980年代末~1990年代初めと推定される。1944年から1945年にかけて、会社側が鉱夫たちにたばこを支給する過程で作ったこの名簿には、400人あまりの朝鮮人の名前(日本式と韓国式が混ざっている)、生年月日、移動状況などが記されていた。富田さんは、郵便関連の記録は敗戦直後に全て焼却したが、「煙草名簿」については特に指示がなかったため保管していた。名簿の原本は現在、佐渡博物館が保管している。

 この名簿を確認した本間さんは1991年8月、在日朝鮮人問題に関心の高かった佐渡島にある寺「称光寺」の住職、林道夫さん(75)に写本を渡した。忘れられた地域史を蘇らせ、日本の歴史的責任を悟らせようとする小さな歴史の歯車が回り始めたのだ。林さんは本紙の取材陣に「名簿の実体を明らかにし、過去の佐渡鉱山で何があったのかを知るためには、生存者を捜し出して証言を聞く必要があった。在日朝鮮人のチャン・ミョンスさんたちと共に1991年11月に韓国に渡り、現地調査を行った」と述べた。煙草名簿と共に、「忠清南道の人々の性格が比較的穏やかで鉱山労働に適している」と記された当時の朝鮮人募集担当者の手記も発見された。彼らはとりあえず「忠清南道論山(ノンサン)」に行き先を定めた。

 地域新聞「大田日報」が彼らの訪韓目的を大々的に報道し、イム・ドッキュ元国会議員から様々な面で支援が得られた。その結果、キム・ジュヒョンさん(当時65)とチョン・ビョンホさん(75)ら生存被害者たちと出会えた。彼らの証言は映像と記録として残っている。これまでは残っている生存者の証言は、鉱山から逃走し、その後日本に定着したイム・テホさん(1919年生まれ)の口述が唯一だったが、本紙はさらに5人の証言を確保することができた。

 1943年、17歳の時に佐渡鉱山に連れて行かれたキム・ジュヒョンさんは「佐渡に行く1年前から面(地方行政単位)の関係者と募集担当者が『一家から1人は行かなければならないという命令がある』と話して回っていた」と証言した。「母が泣いて大変だった。末の息子を送り出すというのだから泣かないはずがない。お前が行かなければお前の兄を捕まえると言うから仕方なく行ったんだ」。キムさんは坑内で、岩に穴を開けるためにパイプをつなぐ仕事をした。「24時間3交代勤務だった。苦しくて逃げ出したかったが、逃げて捕まった人がボコボコに殴られるのを見てあきらめた」

 チョン・ビョンホさんも1943年、27歳の時に同じ村の10人あまりの住民と共に動員された。彼は坑内で岩にダイナマイト爆破用の穴を開ける仕事をした。毎日が恐怖だった。「坑道の仕事が肺に良くないことは知っていた。坑道に入るたびに死が待っているという気がした。一番怖かったのは、地下に下りる時、急に携帯用の明かりが消えて真っ暗になった時だ」。チョンさんは1944年に、落石に当たって3カ月も入院しなければならなかった。解放後、チョンさんは故郷に帰った。故郷を出る時に3歳だった娘は死んでいた。妻は家を出て行方が分からなかった。

1995年から「過去・未来―佐渡と朝鮮をつなぐ会」に参加していた元佐渡市議会議員の小杉邦男さん(84)が、佐渡鉱山の朝鮮人たちが生活していた寮の跡の前に立っている。今は茂みになってしまっている=佐渡/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 1995年12月1日、佐渡島で意義深い場が設けられた。「『戦後50年』佐渡鉱山で働いた韓国人を迎え証言を聴くつどい」が開催されたのだ。佐渡の市民が1991年から臨時組織として運営していた「過去・未来―佐渡と朝鮮をつなぐ会(つなぐ会。今年5月解散)」が正式発足後に主催した行事だった。韓国の調査過程で出会った生存者のうち、尹鐘光(ユン・ジョングァン)さん(当時73歳)、ノ・ビョングさん(72)、遺族のキム・スンピョンさん(46)が招かれた。

 当時の証言資料によれば、ユンさんは「佐渡鉱山に再び来られるとは夢にも思わなかった。その時、共に働いていた韓国人の同僚たちはほとんど死んでしまった。私がこのように来られたのは奇跡」と感無量な気持ちを表わした。19歳だった1941年に佐渡に動員されたユンさんは「面で割り当てがあると言うので、両親と妻を残して佐渡に連れてこられた」と話した。坑内で岩に穴を開けた時に散らばった石を集める作業などをしていたユンさんは「自由ではない生活だった」と証言した。同氏は「飯は5分で食べなければならず、いつも腹をすかせていた。寝ることすら統制された」とし、「労賃もどうなるのかよく分からなかった。休暇を取るのも難しい雰囲気だった」と強調した。

 ノ・ビョングさんは17歳だった1941年、佐渡に動員された。ノさんは、若い朝鮮人が事故で死ぬのを見守らなければならないのがとてもつらかったと訴えた。同氏は「1942年、第3坑道にいた朝鮮人がダイナマイトの爆風で携帯用の明かりが消え、前が見えなくて転落死した。遺体が運ばれてゆくのを見た。私が死を確認した人だけでも4人いた」と述べた。

佐渡島にある寺「称光寺」の住職、林道夫さん(75)は在日同胞のチャン・ミョンスさんらと共に1991年から95年にかけて4度も訪韓し、佐渡金山の朝鮮人労働者を捜し出して証言を聞いた。5年前の交通事故で今は体が不自由だという=佐渡/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 佐渡鉱山で生き残った朝鮮人たちは強制動員と苛酷な労働を証言しているが、日本政府は「佐渡島の金山」のユネスコ世界遺産への登録を申請した際、その期間を江戸時代(1603~1867年)で完全に区切った。不都合な歴史に目をつむる態度だ。2015年に登録された軍艦島(端島)などの遺産を説明する東京の産業遺産情報センターでは「朝鮮人と日本人の労働者の間に差別はなかった」という資料を堂々と掲げている。

 1995年からつなぐ会に参加していた元佐渡市議会議員の小杉邦男さん(84)は「日本政府が朝鮮人に対する差別がなかったと言うのは真実ではない」と語った。「幼い頃、朝鮮人のことを『半島人』と呼んでいた。日本人より下だという差別的な言葉が日常で平気で使われていた」。同氏はまた「佐渡鉱山でも、難しい坑内の仕事は朝鮮人によって全面的に担われていた。これが差別でなくて何なのか」と強調した。実際に、三菱鉱業佐渡鉱業所が作成した「半島労務管理ニ付テ」(1943年)という資料によれば、事故の危険が高く、労働条件が劣悪な坑内労働には473人の朝鮮人、146人の日本人が投入されていた。約76%が朝鮮人だったのだ。

 つなぐ会を率いた林さんも「佐渡から無事に故郷に帰った朝鮮人たちも、肺病などの後遺症に苦しみ、ほとんどは早くに亡くなっている。現地調査で、当事者だけでなく家族の苦しみが続いているのを目撃した」と話した。そして「過去の歴史的事実をありのままに見なければならない。逃げてはいけない。戦争責任問題は人間の尊厳を取り戻すためにも、私たち日本人が追及され続けねばならない大きな課題だ」と強調した。

佐渡(新潟県)/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/1054760.html韓国語原文入力:2022-08-15 14:30
訳D.K

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