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「私が生まれる前日に動員された父親は、ヤスクニに合祀された」

登録:2019-01-22 22:22 修正:2019-01-23 10:35
靖国神社の無断合祀撤廃2次訴訟、最終弁論 
弁護団「韓国と立場が入れ変わったら合祀を受け入れられるか」
22日、東京地方裁判所で開かれた靖国神社無断合祀撤廃訴訟の最後弁論に出てきたユ・スイェ氏(中央)が、陳述を終えて父親の写真を持って立っている=東京/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社

 「父は私が生まれる前日に動員されました。臨月の妻を置いて、まもなく生まれる子どもの顔も見られずに戦場に連れて行かれた父を思えば、あまりに心が痛みます。その後、父から生まれたばかりの私の写真を送ってほしいという手紙が届いたと言います。『顔を見たいので、写真でも撮って送って欲しい。ほんの何日か遅ければ息子の顔くらい見て来たものを…』と書いてあったそうです」

 22日午後、東京地方裁判所103号大法廷では「靖国神社無断合祀撤廃訴訟」の最終弁論が開かれた。訴訟を起こした遺族27人を代表して、ユ・スイェ氏(74)が震える声で最終陳述をした。

 ユ氏は、父親が23歳の時に連れて行かれたと話した。父親ユ・ボンハク氏は、1945年1月に鹿児島県の海軍基地の軍属として動員され、解放まで20日足らずの同年7月28日に米軍の爆撃で亡くなった。一人息子だった父親が動員された後、家族は散り散りになった。祖母、母、ユ氏は配給に頼ってかろうじて延命したという。解放後、一緒に動員された村の人が帰ってきて、父親が亡くなったとのことを教えてくれ、祖母はその衝撃で1カ月後に世を去った。

 ユ氏は「戦死通知書を受け取ったこともない。(日本政府が作成した)父に関する記録は、遺骨を家族に返したとなっているが、受け取っていない」と話した。ユ氏は、靴磨きやガム売りをしながら苦労して生きた。「生きることが辛くて」極端な考えも抱いたと話した。

 ユ氏は、戦争の被害者である父親の名が靖国神社に残っていることは耐えがたいと話した。「父を戦場に連れて行き、無残に死なせておきながら、無断で合祀した日本政府とヤスクニは私に謝罪し補償しなければなりません。一日も早くヤスクニから父の名前を抜かなければなりません」

 1869年に設立された靖国神社には、清日戦争・露日戦争・太平洋戦争の戦死者、太平洋戦争を主導したA級戦犯らが合祀されている。朝鮮義兵を討伐し死亡した軍人も合祀されている。戦場に連れて行かれ死亡した後に合祀された朝鮮人も2万人を超える。

 そのために遺族たちが2008年、ヤスクニと日本政府を相手どり1次無断合祀撤廃訴訟を起こしたが、2013年に敗訴した。原告側は、日本政府が戦後に形式上宗教法人に変身したヤスクニに戦死者名簿を提供した点などを追及したが、裁判所は日本政府にヤスクニを積極的に保護しようとする意図や目的はなかったとして原告敗訴判決を下した。

 その後、別の遺族が2013年に東京地方裁判所に2次訴訟を起こし、今回最終弁論が開かれた。判決は5月に出る予定だ。

 弁護団は法廷で「戦没者の追悼は他国でもしているという主張があるが、ヤスクニは侵略戦争を肯定する施設なので性格が違う。8月15日に武道館で日本政府が行う戦没者追悼式に異議を提起する国はない」として「日本政府は、戦死者名簿をヤスクニに提供したことは行政サービスに過ぎないと主張しているが、道理に合わない」と指摘した。また「立場を変えて、日本が韓国に併合された後、日本人が戦場に連れて行かれ戦死したと仮定してみよう。韓国が無断で日本人を宗教施設に合祀したと考えれば、それを受け入れられるか。宗教の自由だと主張することができるか」と問い詰めた。

東京/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/879427.html韓国語原文入力:2019-01-22 19:55
訳J.S

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