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‘水俣病’57年ぶり 日本 最高裁、初めて認定判決

登録:2013-04-17 20:56 修正:2013-04-18 07:33
"政府基準である種々の病症がなくとも、生活履歴など総合的判断すべき" 疾病認定‘訴訟’相次ぐ可能性
世界的な報道写真作家ユージン スミスの1972年作 '入浴するトモコ'、写真の中のトモコは水銀中毒にかかった母親から水俣病を持って生まれ、76年に21才で死亡した。

 16日午前、日本、東京の最高裁判所前に筆で‘壁’と書かれた長さ1.4mの紙旗が掲げられた。 行政と司法の壁を壊そうというある原告の切実な願いを書いたものだ。

午後3時。 最高裁判所は判決を下した。 "(県の)上告を棄却する。"

 原告の勝利であった。最高裁判所はこの日、水俣病患者の遺族が出した訴訟で史上初めて水俣病患者であることを司法判断として認定した。 政府が認めた基準を充足できなくとも、個別的に調べて水俣病を判定しなければならないということだ。 原告側が病気を認めてほしいと現政権に最初に申請してから、何と39年ぶりだ。 原告 溝口秋生(81)の母親は病気に苦しめられ1977年に77才ですでに亡くなった。

 日本、熊本県で工場廃水中のメチル水銀に汚染された魚介類を食べた人々が、神経麻痺などの症状を示し始めたのは1950年代からだった。 熊本県、水俣市一帯で患者が続出するや日本政府は1956年に病気の存在を公式確認し、1971年病気の認定基準を公表した。 この基準は1977年に入り、手足の感覚障害以外に他の症状もなくてはならないという内容で、非常に厳格なものだった。 病気を訴えた人の相当数が病気を認められなかった。

 1977年の基準により病気を認められた人は今までに3000人ほどだ。 彼らには工場廃水を水俣湾に捨て病気の原因を提供した化学会社チッソが1500万~1700万円ずつを支給した。 だが、認められなかった患者の方がはるかに多かった。 日本政府は‘政治的決断’で、1977年の基準は満たさないが病症がある1万1000人に一時金として210万~260万円ずつを支給した。 だが、病気を訴える患者は依然として多く、2009年には救済特別措置法が作られ、今までに6万5000人が救済を申請している状態だ。

 溝口の母親も1955年から手に知覚マヒの症状を示した。 1974年に水俣病を認定してほしいと県に申請したが、必要な検診を全て受けられないまま3年後に亡くなった。 県は1995年に申請を棄却した。 <朝日新聞>は 「熊本県は病院側に検診記録を17年間も送らないでくれと言った」として「検診を終えられない状態で亡くなり申請が棄却された人が420人で、認められた人は40人だけだ」と17日報道した。

 溝口の遺族は2001年に裁判所に訴訟を起こした。 そして12年ぶりに歴史的な勝訴判決を勝ち取った。 最高裁判所は「病症が種々にわたらない場合にも水俣病と認定する余地がある。 生活履歴等を通して総合的に判断しなければならない」と明らかにした。 これにより司法判断で病気を認められる道がついに開かれた。 企業と政府が認定を避けてきた公害病患者に一筋の光が降りてくるには、この病気が初めて公式確認された1956年から何と57年かかった。

東京/チョン・ナムグ特派員 jeje@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/583336.html 韓国語原文入力:2013/04/17 20:29
訳J.S(1379字)

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