原文入力:2011.10.17(5239字)
[金東椿(キム・ドンチュン)の暴力の世紀 VS 正義の未来]
公人の失踪 ① 解放された国で‘アカ’にされて死んだ公人たち - 公的活動をしたすべての政治的反対者の絶滅を試みた李承晩・親日勢力
東学農民抗争を率いたチョン・ボンジュンは逮捕されソウルへ強制連行された。日本公使が背後で操縦した形式上の裁判で裁判官が「お前は何の被害もなかったのに何のために乱を起こしたのか?」と尋ねると、チョン・ボンジュンは「一身の被害があったからとして立ち上がることがどうして男のやることと言えようか? 多くの人が願望と嘆きを言うので、民のために害悪をなくそうとして立ち上がった」と答えた。腐った朝鮮王朝と日本の侵略に対抗したチョン・ボンジュンはまさに民の怨恨を解くために農民軍の指導者になったが、結局刑場の露と消えた。
←1949年6月29日、陸軍少尉アン・ドヒが白凡 金九を暗殺した。多くの人々が京橋荘を訪ね弔問しながら号泣した。 李承晩勢力に南北交渉を求めた金九は事実上アカのような存在であった。 ハンギョレ資料写真
公益追求勢力が不純分子である時代
朝鮮が日帝植民地に転落する頃に高官でない没落した両班(ヤンバン)、儒者や中間層内の下層出身知識人の一部は儒教的教えに従い公人の徳性を実践したが、義兵運動に身を投じた人や亡国の恨を抱いて自決した梅泉 ファン・ヒョン、家産を整理し満州独立運動を支援したイ・フェヨン、イ・ドンヨン一族が彼それらだ。しかしチョン・ボンジュンと以後の独立活動家は儒教的滅私奉公の論理ではなく万民平等の新しい思想に立って民族と民衆の苦痛を解決するために闘争に立ち上がった。近代的公人が作られたのだ。
しかし日本帝国主義は「両親に孝をつくす善良な国民になれ」と教えた。それは天皇に忠誠を尽くし、ひたすら家族だけ養えということであった。それで一部の朝鮮人は両親に孝行し妻子を腹いっぱい食べさせるため日帝の密偵や警官、軍人になった。ところで近代的公的価値のために献身した抗日運動家の多数は解放を見ることができずに目を瞑り、生き残った人も殴打、拷問、精神的苦痛の後遺症で正常な生活をすることはできなかった。本当に呆れ返る事実は生き返った抗日人士の相当数が解放後に国家や民族の指導者として優遇されるどころか、日帝が残して行った彼らの代理人ども、すなわち日帝下で妻子に腹いっぱい食べさせようとして日帝の手先の役割をはばからなかった人々の手によって‘解放された国’で‘左翼’にされ亡くなったという点だ。私益を追求した人は地域社会の‘有力者’、すなわち‘右翼’になり、公共の大義に情熱を傾けた人はアカあるいは再び不純分子となった。そして私益追求者らは日本警察が抗日人士を監視・探索するために作った名簿を活用し、以後彼らを主に転向した左翼で構成された国民保導連盟に括り韓国戦争が勃発するや虐殺した。
慶南(キョンナム)、金海(キメ)は日帝時期から農民組合運動と夜学運動が活発なところとして有名だった。金海(キメ)のキム・ジョンテ、カン・ソンガプらは日帝治下で独立運動の一環として教育運動に力を尽くしてきた人物であったが、地域社会から篤い信望を得ていた。 カン・ソンガプは進永ハンオル学校の設立者で私財をはたき教育運動に献身し、キム・ジョンテは1919年3・1運動当時、進永万歳義挙を主導し大邱(テグ)覆審裁判所で1年6ヶ月間収監された。独立軍に資金も提供した。 ところが解放後、地域の日帝の手先は彼らを負担になる存在と感じた。 特にカン・ソンガプに対しては「進永が故郷でもないのに進永に留まり教育事業を行うことが目障りだ」と話したという。 キム・ジョンテに向かっても解放後に彼が3・1記念日行事の時、李承晩政府の行事に参加せずに金九の行事に参加するや日帝時期に教師をし女子学生醜行事件で免職となった経歴のあるカン・ペクスは、彼を国民保導連盟に加入させ、結局 彼は戦争勃発直後に虐殺されてしまった。 戦争勃発直後、進永邑(ジンヨンウプ)の右翼非常事態対策委員会構成員であったイ・ソクム、イ・ビョンヒ、キム・ユンソク、カン・ペクスらが‘私設軍法会議’という私設団体まで組織して虐殺を企画・執行したという。イ・ソクム、キム・ユンソク、カン・ペクスの3人は1950年7月27日、支署主任キム・ビョンヒ、 青年防衛団長ハ・ケベクと密会し、カン・ソンガプの殺害を謀議し、直ちに洛東江(ナクトンガン)辺でカービンで彼を殺害したという。 この事件は米国布教団体と国連韓国再建団(UNKRA)が最初に問題提起し米国言論にまで報道されたが、李承晩政権は事件が大きくなるやキム・ビョンヒらを軍事裁判に回付した。以後、キム・ビョンヒは死刑を、残りは10年刑を宣告された。しかし実際に刑が執行された人はキム・ビョンヒだけで、残りは1ヶ月も経たずに釈放された。当時戒厳民事部長だったキム・ジョンウォンが3千万ファン(訳注:韓国の貨幣単位、1962年にウォンとなる)を受け取り彼らを釈放させたといううわさがある。一方、進む永女子中学校教師であったキム・ヨンミョンは結婚して6ヶ月にしかならない新婚であり、美貌や人間性で周囲の称賛を一身に受けていたが、支署主任キム・ビョンヒが兄のキム・ヨンボンの隠れ場所を問い質し彼女を性暴行し拷問致死の後に密葬した。キム・ヨンボン、キム・ヨンミョンの父親キム・ソンユンが日帝時から財産をはたき独立運動を後援し、地域内の後進を海外留学にまで送った人物だったが、進永邑内の各機関の‘有力者’らはそれをねたましく思い韓国戦争勃発を契機に彼らを抹殺することを決意したという。
←保導連盟被虐殺者の中には米軍政に反対し李承晩単独政府樹立にも反対した広範囲な右翼系列の地域指導者が含まれていた。1950年7月大田市(テジョンシ)、山内面(サンネミョン)コルリョン谷で忠南(チュンナム)地区陸軍特務部隊(CIC)と憲兵隊らが保導連盟員たちを虐殺している。こちらで最大7千人余りの大田刑務所服役者と保導連盟員が虐殺されたと推定される。 ハンギョレ資料写真
左翼系列の推戴を口実に
その後、虐殺されたキム・ジョンテの息子キム・ヨンウクは4・19直後に父親の無念を晴らすため遺族会活動をしたとして獄苦を体験することになった。彼は生前 父親の死は「いわれなき死」と話し、進永の虐殺事件は‘めちゃくちゃな事件’と述懐した。日帝時から親日だった人々には罪がなく、全うな人をアカに追い立てたということだ。
一方、京畿(キョンギ)南楊州(ナムヤンジュ)でも反李承晩路線を歩む右翼系独立活動家たちを軍と警察が殺害した。南楊州(ナムヤンジュ)眞乾・榛接<独立運動史8>には1919年3月31日 榛接面、富坪里、光陵川一帯で3・1運動示威が起きたが、当時示威を主導した人はキム・ソンスク、カン・ワンス、イ・スンジェ、キム・ソンノ、ヒョン・イルソン(ヒョン・サンギュ)等、奉先寺(ポンソンサ)僧侶たちであり、彼らは文書を作成し配布するなどの活動をして監獄暮らしをしたと記録されている。解放直後の1946年、奉先寺のウン・ホ僧侶(イ・ハクス)が光東学校を設立し、その学校で金九先生講演会を催しもした。韓国戦争直前、この地域は奉先寺を中心に李承晩政権に反対し進歩的に社会参加をしようとする雰囲気が強く、奉先寺僧侶であり独立活動家であるヒョン・サンギュと彼の妻ペク・チュパは避身せずに1950年10月15日頃、榛接支署に連行されることになった。ソウル専売所で働いていた彼らの息子ヒョン・インソプもこの消息を聞き南揚州(ナムヤンジュ)に入ってきて捕えられ榛接支署に閉じ込められた。これらの人々は国軍が収復した後1950年10月21日(陰暦9月11日)頃、人民軍治下で生き残り彼らに協力したという理由で榛接面役場の裏山で殺害された。
解放後、自ら大衆の前に立つなどの積極的な活動をしなくとも、中立的民族主義路線を歩んだ人々は地域社会から信望があったため左翼系列の人々が彼らを地域の指導者として推戴しようとし、それが口実となって虐殺された事例もあった。1948年10月麗水(ヨス)順天(スンチョン)事件当時、麗水女子中校長だったソン・ウクのような人が代表的だ。彼は日帝時期に朝鮮語学会事件で獄苦を体験したこともある民族主義者であった。彼は麗水順天反乱事件が起きた直後、麗水市に残っていて左翼系教師たちが支持演説をしてくれるよう要請したが断った。しかし反乱軍が退いた直後に進入してきた討伐軍は彼を反乱軍の首魁に追い立て虐殺した。反乱軍治下で生き残り彼らに推戴されたという理由だったが、事実それを李承晩側や現地討伐軍のミスとは考えられない。麗水順天事件が勃発するや李承晩政府は当時目障りな存在だった金九の背後陰謀説を一貫して広めていたためだ。この時点でイ・スンマン勢力にとって南北交渉を追求していた金九は事実上アカと同じ存在だった。
‘親日コンプレックス’が産んだ残忍な報復
解放後、反李承晩路線を歩んだ抗日経歴者たちが赤に追い立てられたことは、馬山市(マサンシ)で公式的には転向した左翼を監視・統制するために作った国民保導連盟加入範囲をどのように設定したかを見れば知ることが出来る。慶南(キョンナム)、馬山市(マサンシ)支部は1949年12月7日の支部結成以後、1950年1月5~20日を‘加盟週間’に設定し加盟対象者を指定したが、その中には△米ソ共同委員会 馬山市民祝賀大会に市民として隊列に参加した者△モスクワ三相会議を支持した者△ 10月暴動に意識・無意識に加担した者△民戦傘下の社会団体に物資および金品提供調達協力者などが含まれている。これは事実上1946年以後、李承晩韓民党系列極右団体の活動を除く米軍政の麦供出反対など公共集会および民族主義・左翼・中道左翼主導の集会に参加したり団体に加入したり、あるいはそういう活動を私的に支援した人を全て含むということで、私人として留まらず社会活動、特に公的社会活動をしたすべての人を包括したものだった。もちろん当時、米ソ共同委やモスクワ三相会議を支持した人の大多数は左翼系列だったが、統一政府樹立を望む多数の右翼界抗日運動家たちも李承晩式単独政府樹立は全く支持していなかった。結局、この範囲に属し保導連盟に加入させられた人々は以後に大部分が殺害されたが、このように見れば保導連盟被虐殺者の中には米軍政に反対し李承晩単独政府樹立にも反対した広範囲な地域指導者が含まれていたという話になる。
進永や南楊州地域のように左翼と全く関係のない右翼系独立活動家が、彼らをねたましく思った地域内の‘有力者’、主に親日経歴を持った人々の謀略によって戦争の渦中にアカとして追い立てられ虐殺された事例は全国津々浦々に無数にある。この右翼系抗日運動家たちは解放後、李承晩が親日派らを再起用し単独政府を樹立しようとするや、それに対し強く批判し、まさにそういう立場のために彼らは左翼として追い立てられた。米軍政によって再起用された親日警察や役人たちにとっては、過去の彼らの行跡を知っているだけでなく彼らによって苦痛を与えられた人々が自分の目の前で生きて動いていること自体が大きな脅威だった。全国すべての地域で住民たちの証言を聞いてみれば皆が「頭が良くて周囲の人々が妬んだ」と話す。頭がよいという言葉は日帝時や解放後に地域社会の指導者クラスだったということと同じだ。‘妬む’は私的関係を表現する言葉だが、実際には有力者らの親日コンプレックスをいう言葉で、そのコンプレックスのために過去の行動を攻撃する人々に残忍な報復を加えたわけだ。 数年前に亡くなった老村 李九栄(イ・グヨン)先生のように解放後に警察に拘束されたかつての独立活動家は、日帝末に自身を拷問した警察官どもに解放後に再び拷問されるという馬鹿げたことをたくさん体験した。
除去されなければならない‘危険人物’
結局、韓国戦争前後にアカとして追い立てられ亡くなった人々の中には多数の抗日運動街が含まれていた事実を否認することはできない。そして彼らは親日警察や親日人士の嫉妬と謀略により殺された。親日経歴者で充たされたイ・スンマン政権とその下手人らにとって独立運動経歴を持った人々は負担になる存在だった。彼らは除去されなければならない‘危険人物’だった。
聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授