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[ハンギョレ21 2009.11.20第786号]路地裏, そこには人の暮らしがあったよね

[レッド企画]ニュータウン・再開発で消えていく懐かしい空間の収録作業 活発‘文字と写真に残される記憶’

□キム・ミヨン,リュ・ウジョン

空間にはそこに暮らした人々の痕跡が残る。古びた場所ほど大切にしまわれた話が多い。だが600年の歴史が宿ったソウルでは、古い家々を壊して洗練された街に変えられ、そうしう話も失われている。高層アパートを作る再開発の嵐が町内と人の長い営みの痕跡を消している。
軽い財布でお好み焼きとマッコリを楽しめたソウル,清進洞のピマッコルも来る12月にはなくなる。再開発区域に指定された後、撤去が進められたここには現在残っている店はやっと七軒。油の臭い、香ばしいお好み焼きを焼いて出す‘ヨルチャチブ(列車屋)’,網でカリッと焼いた焼き魚が逸品の‘テリム(大林)食堂’等も全てなくなる予定だ。ソウルの随所で再開発事業が一斉に進められピマッコルのような人の臭いがプンとする暮らしの空間がなくなっている。

固有色を失いアパート団地に変貌する町内

このように町内固有の色を失い高層建築とアパート団地に変わっていく空間に対する批判と危機感が高まり、古びた町内を記録する作業が各地で進行中だ。つぶされて新しく満たされる空間を、土地っ子の記憶を借りて記録する人々が増えている。記憶が文字で記録を残す。

ソウル歴史博物館は消えゆく町内を記録し民俗誌を発刊している。2007年の漢南ニュータウン,2008年のカジェウルニュータウンが民俗誌の対象になった。 本には住民たちの日常から古臭い暮らし向きまでが皆記載されている。間もなく消える最後の風景,町内に対する長年の記録は誰かの日記をのぞき見するように興味深い。

カジェウルニュータウンという名で呼ばれるソウル,北加佐洞と南加佐洞一帯、ここは以前から砂(モレ)が多く‘モレネ’と呼ばれていた。土地を掘れば砂がたくさん採れ、工事する人が砂を売って建築費に充当するほどだった。再開発でこの土地を立ち去らなければならない人々は民俗誌にカジェウルに関する記憶を注ぎ込んだ。

←2005年ニュータウン地区に指定されたソウル,北阿峴洞にも変化の風が吹いている。再開発の嵐は町内と暮らしの長年の痕跡を消し去る。文化ウリ提供

“昔、おそらく大洪水の時に、膨大な砂が積もったようだ。雨が降れば長靴を履いて行かなければならないくらい砂が多かった。名前がモレネじゃないか。地面を掘ればすばらしくきれいな砂がたくさん出るんだよ。それで工事費の足しになるくらい。下水を外に流せば自然になくなってしまってね。それほどモレネは砂で有名だったんだよ” (キム・チャンオク・79才)

“屍骨をどれくらい出てくるか分かりません。ニュータウンになれば骨がすごく出てくるでしょう。 共同墓地だったんだからね。”(イ・ポ金・70才)

都市の変化はあっという間に起こる。1ヶ月もすれば消え去る清進洞のように新しく生まれる町内はソウル市内で計35ヶ所だ。カジェウル・往十里・吉音洞などの‘ニュータウン’あるいは‘均衡発展促進地区’という名分で再開発工事が進行中の地域だ。ソウル歴史博物館は今年、阿峴・吉音・敦義門・往十里・清進洞,ピマッコルを記録した。

苦しい暮らしを生きてきた人々の生きている証言

記録作業は文献調査,建物実測調査,インタビューなどで行われる。最も重要な情報は人を通じて出てくる。ソウル歴史博物館のオ・ムンソン学芸士は「普通の人々の暮らしてきた話が最も重要だ」として「話を聞いてみると世の中はこんなに変わり、歴史はこうして発展するんだなと感じる瞬間がある」と話した。

高層ビルディングを屏風にみなして島のように残っている清進洞,ピマッコル食堂の主人たちは1ヶ月余り後には捨てて立ち去らなければならない油垢のついた古い食堂の追憶を語る。

“子供が孝行息子なんじゃく魚こそ孝行息子だ。ここで30年商売をしてきたけど、魚を売って息子をイギリスに留学させ結婚もさせたよ。うちの常連さんには故チョン・ジュヨン現代会長もいたんだよ。人は本当に素朴だが金を使い方は人情に厚かったよ。美味いもの全部出せと言うので、魚盛り合わせを持っていくと帰る時には食事代より2倍以上のお金を戴いた。食事代を取って余ったお金は食堂のおばさんたちが1万ウォンずつ分け合ったりしてね。”(テリム(大林)食堂 ソク・ソンジャ社長)

←公共美術が村の中の路地に入ってきた。北阿峴洞にある秋渓芸術大美術学部の学生たちが北阿峴洞ニュータウン開発地域を主題に多様な美術作品を披露した。 

“武橋洞メウンナクチ(辛タコ炒め)は私が元祖”という92才のナクチセンター社長はソウル再開発熱風の生き証人だ。鍾路一帯からだけで4回も追い出され引っ越した。清進洞ピマッコル再開発で再び移転を準備する彼は「今度は絶対に引っ越さずに済む所に移る」と言ったが、その願いがかなえられるかわからない。消えゆく町内と路地裏の記憶はそのように人々の頭の中に、一枚の写真として残り、記録としてものさびしく保存される。

採集した話はまた新しい話になる。吉音洞は日帝時代には大規模埋葬地だった。共同墓地を移葬してソウル市が宅地造成を準備する過程で、貧民たちが無許可住居を作り定着した。だが貧村の代名詞だった吉音洞も2003年にニュータウン示範地域となり変わってきている。より高いビルが建てられ貧村のイメージを消そうと渾身の力をふりしぼっている。だが、民俗学を研究する記録担当者たちにとっては何一つ特色のない街への変化に残念な思いを抱かせる。

“なくなるので記録しにきたよ”歓迎する住民たち

オ・ムンソン学芸士は「地域内部者として見れば、外部に知られずになくなればと思う空間である場合もあるが、外側から見れば意味ある空間であり、その地域の昔の姿を見せられれば良いだろう」と話した。以前は記録作業のために家々を訪問すれば「全部なくすといっておいて何を記録するのか」という住民たちの反発が大きかったが、今は「なくなるから記録しに来たんだね」といいながら暮らし向きを見せてくれる人々が増えた。記録する人も、記録のために記憶を探る人も、消えゆくことに対する悲しさを共に分けあって過去と現在をつなぐ。

消えゆく伝統文化を記録する民俗学が農漁村に続き都市に注目したのも、都市があまりに早く変化しているためだ。国立民俗博物館のジャン・サンギュ学芸士は「民俗というのは結局は人々の話だが、産業社会以後の現代人の姿を最もよく見せる都市を研究しなければならない必要性が台頭し、都市民俗学研究が重要になった」と話した。

国立民俗博物館は昨年の阿峴洞に続き、今年はソウル,貞陵3洞を覗いて見て民俗誌を作った。再開発地域ではなくとも、ひっそりと静寂な雰囲気の貞陵3洞は人々の宗教・生活面から民俗調査地として価値ある所だ。ペバッコル,国民大学校裏757番地一帯などに分けて調べた村は、住民たちが毎年山神祭を行う程に巫俗信仰が宿ったところだった。

“私たちの町内は山神祭が有名だよ。1年12ヶ月無事にしてくれと祈って毎月1日に行うんだろう。この頃は区庁長とかなんとか皆出てきて、写真を撮ったりインタビューもしたりして。昔はひとりでに豚の頭を捧げていたんだけどね。今は簡単にするんだけどね。60年代までは豚を絞めて、住所名前を書いて焼き紙してね…山神霊に捧げたんだよ。”

“貞陵3洞の市場からその下の現在のアパート(ヒョンジンビラ)までが広い空地だったが、そこは‘ネンチョンゲ’と呼ばれていた。そこの運動場が幼い時、広場が広くて‘チムプ(訳注:日本で言う三角ベースのようなもの)’をして遊んだよ。今の野球みたいなものだ。人が(ゴムボールを)げんこつで打った。野球と全く同じようにね。”

←来る12月には清進洞ピマッコルが歴史の中に消える。油の臭い、香ばしいビンデトック(緑豆お好み焼き)を焼いて出す‘ヨルチャチブ’,網でカリッと焼いた焼き魚が逸品の‘テリム(大林)食堂’等も皆なくなる予定だ。長年、こちらで暮らした人々は新しいところに去らねばならない。

40年の歴史を持つこちらのスカイアパートの班長手帳を見れば、1990年代初期の生活が伺える。1991年8月分スカイアパート3棟上下水道料金は27万5040ウォン。手帳にはこの金額を世帯別に頭数を計算して分けた料金内訳がぎっしりと記されている。首都税・電気代を分配することが、その当時の班長の重要な任務だったことを伺える内容だ。

研究員たちはこの地域の調査のために1年を費やした。3ヶ月間は半地下の貸間に暮らし昇る朝日と沈む夕日を眺めた。外で見たこと、内で見たことが几帳面に民俗誌に記録された。現在の姿ではあるが、まもなく過去となる風景が多かった。国立民俗博物館キム・ヒョンギョン研究員は「目に見えるものがなくなったからと忘れてしまえば悲しくないのか」とし「都市開発の良し悪しは言えないが、誰かが記録して記憶しなければなければならないと思う」と話した。

月払いの借家を借りて暮らしを体験することも

都市では時代と社会の変化に積極的に適応しようとする人々の姿を見ることができる。同時に外形的な変化に拘り600年の歴史を失いつつあるソウルの危機も見ることができる。路地を歩き始めた都市散歩者などの増加がこれを証明している。ソウル市,鍾路区は路地に対する関心が広まるや、都心内の路地を歩いてみる踏査コースを作った。韓屋が密集した嘉会洞は韓国式家屋体験コースに、京橋荘とホン・ナンパ家屋のある橋南洞は歴史・文化紀行コースにするなど多様なテーマを持った路地コースを来年から運営する計画だ。

キム・ヒョンギョン研究員は「路地は子供たちの遊び場であり日当たりの良い所に洗濯物を干す方法や狭い道での駐車法などのアイディアが光る場所」としながら「衣食住のすべてがあり‘文化の百貨店’と呼べるほどに記録担当者にとっても重要なところ」と説明した。

←砂が多く‘モレネ’と呼ばれたカジェウル、貧民村として知られた吉音洞にも高層アパートが建つ予定だ。まもなく消える最後の風景,町内に対する長年の記憶は民官団体と民俗誌にそっくり文字と写真で残ることになる。ソウル歴史博物館提供

地域芸術家たちの間では村と共同体を芸術活動の基盤とする地域主義運動が活性化し、公共美術が町内の路地裏に入ってきた。西大門区,北阿峴洞に位置する秋渓芸術大美術学部の学生たちは去る11月6日から10日まで、北阿峴洞ニュータウン開発地域を主題に公共美術プロジェクトを披露した。‘路地裏の折り目つけ’というタイトルで進行されたプロジェクトのために、学生たちは町内文化と歴史を学び住民たちに会い、インタビューをした。みずぼらしい壁と階段が絵画となって路地を舞台としたパフォーマンスが展開された。

都市文化を研究する非営利団体‘文化ウリ’も北阿峴洞に注目している。2005年にニュータウン地区に指定されたここは現在再開発組合設立を終え、再開発を目前にしている。この町内のランドマークというべき最初の市民アパートであるクムファアパートも40年の歴史を後にまもなく撤去される予定だ。文化ウリは住居環境の改善を名分に一つの都市に蓄積された記憶がすっかり消されることに対する無念さを持って都市景観を記録している。名付けて‘都市景観記録保存プロジェクト’だ。

北阿峴洞の路地を写真に残す公開踏査に参加したアキビスト(記録保管人)イ・インファン(37)氏は普段から美しく見ていた路地が別の意味を持つことができるという事実を悟った。「軍部独裁時期から開発を歓迎しなじんで受け入れてきた老人たちに路地で会えば、この方々は一様に‘アパートに入るのは死ぬことと同じだ’として反対されていましたよ。真のアイロニーでしょう。上から指示された再開発ではなく、地域住民たちが参加して地域の特色に合うように町内を変化させていくことが必要だという気がしました。」

壊さずに新しい世の中を作ることができるという考えは、より良い都市文化空間が必要だという考えにつながる。文化ウリの北阿峴洞公開踏査で踏査の道案内に出たハン・ジウォン(39)氏は消えゆく町内に対する物足りなさから記録作業に参加してみたが「再開発プレミアムだけを見るのではなく、文化的価値も見つけなければならないのではないかと思った」と語った。「幼い時期に子供たちが飛び回った町内が新築アパート団地として残っているより、ぬくみや形態が残っていればそれ自体が尊いことではないでしょうか。」

画一的都市開発を減らす契機となることを

文化ウリの町内記録作業は‘一つの地域一つの生活史博物館’を作るためだ。一つの地域一つの生活史博物館は町内の色がにじみ出る区域をありのままに保存地域として残すことを意味する。文化ウリのイ・ジュンジェ事務局長は「部分だけを見ても全体が分かる、町内の特色ある区域だけでも保存してソウルの歴史を維持する必要がある」として「私たちの記録作業が都市開発をする時の試行錯誤を減らすように願う気持ち」と話した。

古いものと新しいものとが互いにつながり交わってこそ、都市・町内・路地に宿った暮らしが消滅させずにすむ。パク・ヒョンス嶺南大教授(文化人類学)は「我が国の都市開発はあったものをなくし、にせ物に作り、金を儲ける商売をしている」として「消えてゆくあらゆる事を大切に記録すると同時に、ありのまま保存できる方法を先ず考えなければならない」と話した。

文キム・ミヨン記者instyle@hani.co.kr
写真リュ・ウジョン記者wjryu@hani.co.kr

原文: http://h21.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/26152.html 訳J.S