原文入力:2011-01-14 午後08:29:58(2669字)
『人間の夢』キム・スンチョン著 / フマニタス / 1万ウォン
『人間の夢』は2003年1月9日、労働運動に対する会社側のあらゆる弾圧に苦しんだあげく、自ら火を放って焼身した斗山(トゥサン)重工業の労働者ペ・ダルホ氏の生涯を描いた評伝だ。 拘束と指名手配、さらに当時としては「新型労働弾圧手段」だった損害賠償仮差押えなどで苦しんでいたペ・ダルホ氏の死は韓国社会に大きな響きを残した。 イーランド労働者(訳注:大型スーパーの非正規労働者)の話を書いた『私たちの素朴な夢を応援して』のルポ作家キム・スンチョン氏は、遺族と周辺の人々の口を通して、平凡な夢を抱いていた平凡な人間だったペ・ダルホの生と死を追って行った。
ペ・ダルホが斗山(トゥサン)重工業の前身である韓国重工業で働き始めたのは1981年、二十八才のときだった。 除隊後釜山(プサン)のトンホ電気に就職した後ずっと小さい企業だけで仕事をしていた彼は、大きい会社に勤めることになってほっとしたという。 六人兄弟のいる貧しい家族の生計を担っていたためだ。 韓国重工業に勤めながらファン・キリョン氏と出会って結婚し、二人の娘も生まれた。 二才違いの二人の娘を目に入れても痛くないように可愛がったという。
ペ・ダルホは人に対する情が厚く人を恋しく思う気持ちの強い人だったという。 軍事政権の時代に権威的で非人間的だった労働現場は徐々に変化し始め、1985年には韓国重工業に初めて労働組合が作られた。 その後1987年の労働者大闘争を経て労働運動は大きく成長し、ペ・ダルホは主に代議員として組合活動に熱心に参加した。 自転車とホイッスルは彼を思い出させる大事な小道具だ。 暇さえあれば自転車に乗って工場を回っては色々な人に会い、よくホイッスルを吹いては現場の同僚達を集めて話を交わした。 旺盛な組合活動は1995年、スト権を無力化させる「一方的仲裁」条項をなくすという成果を上げもした。
←1993年頃、労働組合の何かの行事に参加した故ペ・ダルホ氏がバスの中でマイクを握っている。 「彼は同僚達と遊びに出かければ、いつも率先して楽しく活気ある雰囲気を盛り上げようとする人だった。」 多くの人が工場の中を自転車に乗って回って色々な人に会いホイッスルを吹いて人々を集まるようにした彼の姿を覚えていると言った。 フマニタス提供
しかし1998年韓国重工業が民営化の道を歩んで、2000年斗山(トゥサン)に引き継がれるとともに悲劇の序幕が上がる。 僅か3057億ウォンで韓国重工業を取得して財界序列8位に急浮上した斗山(トゥサン)は2001年一方的な希望退職を発表し、多様な方法の構造調整に着手した。 そして同時に、労組に対する圧迫の強度を高めていった。 2001年、団体協約で合意した団体交渉に斗山(トゥサン)は理由なしで参加せず、これに対し組合は47日間の全面ストで対抗した。 会社側は大量懲戒と告訴・告発、仮差押えなど労組を無力化させる様々な方法を動員した。 例えばストの期間に家にいれば在宅勤務と認定して日当を与え、ストに参加した労働者は無断欠勤として処理して不利益を与えた。また、組合員とその家族を対象に懐柔・抱き込み作業を行なった。
2002年6月、会社側は組合幹部13人を業務妨害および暴力で告訴・告発した。そこにはペ・ダルホも含まれ、拘束・収監された。 7月には組合と組合員、組合幹部42人に65億ウォンに達する損害賠償を請求した。 8月には620人の組合員に懲戒処分を下し、ペ・ダルホは停職3ケ月の処分を受けた。 こういう弾圧措置は息もつけないくらいに労働者を追い詰めた。 2002年12月、復職したペ・ダルホは「損害賠償の仮差押えを解除してやるから工場をやめろ」という懐柔を受けた。 すでに家も差押えられて生活費さえ途切れた状態であった。
結局ペ・ダルホは1月9日、労働者広場の片隅で誰にも知られず自分の身に火を付けた。「斗山(トゥサン)のやり方はあまりにひどい。解雇者18人、懲戒者約90人、財産仮差押え、給与仮差押え、労働組合抹殺のための悪辣な政策に押されて我々がここで後退するならば、雇用の保証を勝ち取ることは出来ないだろう。。。。斗山(トゥサン)の労働組合抹殺政策は明確に表われている。。。。。公正でなければならない裁判所が、定められた手続きを踏んで争議行為をしたにもかかわらず全てを不法だと言うとは、これは持てる者の法ではないか。」 彼が残した遺書には彼が体験した苦痛が切切と表われている。 実際、彼が死んだ翌日の10日は彼の復職後初めての給料日であったが、仮差押えのため月給袋に記載された額は僅か2万5000ウォンだった。
著者はペ・ダルホが逝った後の、家族に対する会社側の懐柔と圧力、組合と会社の対峙、深刻な労働弾圧に対する労働・市民社会の怒りと連帯など65日間の展開過程も描いた。 葬儀を行うことができなくて会社の中にそのまま安置されていた遺体を、片づけろと言って会社が遺族を相手に「死体仮処分」を申請し業務妨害の容疑で告訴したことは、あきれてものが言えないような現実の最たる一断面である。
2003年3月14日、ようやくのことで会社と合意が成立し、ペ・ダルホの葬儀が行われた。 著者はペ・ダルホが埋葬されたヤンサンのソルバルサン公園墓地を訪ね、ペ・ダルホと並んで眠っている他の労働烈士を一人ずつ思い浮かべた。ペ・ダルホの葬儀のとき訪ねてきて芳名録に署名までしたキム・ジュイクは同じ年の10月、韓進重工業の損賠仮差押えと不当労働行為に抗議して首をくくって自決した。 同じ会社の同僚クァク・ジェギュも命を絶ったし、クァク・ジェギュの後に眠っているパク・イルスという現代重工業の下請けの非正規職労働者は「未払い賃金を払え」という遺書を残して逝った。 著者は彼らを記憶しなければならない理由を尋ねる。 彼らが自らの人生を投げ出して願った願い、すなわち「労働者が人間らしく生きるために命をかけなくてもいい社会」がまだ来ていないからであろう。
チェ・ウォンヒョン記者circle@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/458896.html 訳A.K