原文入力:2010-06-30午後09:40:33(4144字)
escワーキングマップ27.尚州(サンジュ)旧都心と王山
尚州市庁から中央市場・王山・壁画散歩道を辿り旧都心一巡り 4.5km
イ・ビョンハク記者
←尚州中央市場横の路地四つ角。薬局の建物は50年代に建てられたものだ。
干し柿の村、慶北尚州は自転車都市でもある。出退勤・登下校時間には輪っかが通りを支配する。自転車交通分担率が全国最高の21%、世帯当り平均2.7台の自転車を保有する都市だ。しかし、旧都心は自転車に乗るより歩いて回ってこそ感じが出る。尚州という地名は新羅時代から登場する。高麗の時、全国8牧の一つとして尚州牧が設置されて以来、朝鮮時は尚州牧使が慶尚監司を兼ねるほど重要な拠点都市だった。日帝強制支配期に区画整理を行い尚州城と4大門が痕跡なく消えた。市庁(南城庁舎)から歩き始め、中央市場・王山・郷庁など旧都心の一部、先人の足跡を辿ってみる。
中央市場の古い天井を突き抜け木製電信柱がにょっきり
尚州市庁は本庁の男性庁舎と別館の武陽庁舎に分かれている。日帝時、農蚕(養蚕)学校だったという南城庁舎に車を駐めて、笑い声のあふれる中央女子中の横道を歩き自転車代理店路地を歩く。自転車都市らしく自転車代理店10ヶ所余りが都心に集まっているという。
町内の年配の方々の憩いの場である宝城茶房と 「チョッチャク(中央市場側)で10年余り、こちらで20余年にわたりマッコリを商っている」という市場酒場、酒店タロラマショラ(注げや飲めや)前を過ぎ、干し柿通り①に入る。11~2月には足の踏み場もないほど混雑するという尚州干し柿取引の本拠地だ。「ここだけでなく大通り周辺まで干し柿乱戦が一斉に繰り広げられる」と言う。四つ角を渡り、70年伝統の酔い醒ましスープ専門店 南天食堂②に立ち寄る。「倭政の時、姑が食堂を始めて」1977年の嫁のイ・ギェスン(69)氏が受け継いだ。食卓一つなく "バーのように台所を取り囲むテーブル" とプラスチック椅子12ヶが食堂施設の全てだが、朝には商人・呑み助・公務員たちが列をつくる。卵の入ったシレギヘジャングクを食べるためだ(2千ウォン・明け方4時~午後5時営業)。
大通りを渡り中央市場の金物屋路地に入る。鋳鉄の釜を山のように積み上げた釜屋③に出会う。大型の釜から鍋ほどの小釜まで真っ黒な釜たちが路地を占領している。20年余り前には4ヶ所の釜屋があったが、今は一軒だけが命脈をつないでいて昨年に一軒新しくできた。最も大きな釜は40万ウォン。市場の路地は現代式屋根施設になっているが、ある路地には古い木材でできた60~70年代式旧式覆い④がそのまま残っている。看板たちも古かった。「看板を付けたくともつけられないんだよ。天井が下がってくるかと思って。」(化寧商会 主人)こちらには古い木製電信柱⑤が一本残っていて興味を引く。覆い屋根の柱の中の一つとして使われている。商人たちは口々に「尚州でこんな古い市場路地はここだけで、昔の電信柱もこの一本だけだと」と話した。
化寧商会前から左に進むと四つ角に6・25直後に建てられたという第一薬局(旧 ワンソル堂禁方)建物と尚州金物店の建物を見る。日帝時の建物に似ている。ここからサムガン堂薬局に至る路地は20年前まで最も混雑した市場の中心通りだったという。プシシ公主衣料品店を過ぎ右折すれば明星劇場の場所だ。王山横の尚州劇場(20年前に閉館)と共に尚州の2大劇場として名声を馳せたこの劇場は昨年まで持ちこたえただ閉館し明星茶房として残っている。大通りへ出て旧尚州郵便局⑥建物を見物する。外部装飾が独特な日帝時の3階建物だが、移動通信業者が1階を使っている。道の向かい側に旧バスターミナルだった国際書林建物路地に入り都心の中の憩い場、王山前に立つ。
王山(海抜100m)は都心の真ん中に聳える尚州の鎮山だ。壬辰倭乱前までこの山の周辺から科挙主席合格者68人が出てきて壮元峰とも呼ばれたという。19世紀末まで山の前に尚州官衙があった。旧尚州牧城図を見れば王山周辺に官衙建物が一杯だったことが分かる。王山は傷だらけの山だ。壬辰倭乱の時、倭軍占領で毀損されたのに続き、日帝時には峰を削り鉄杭を打ち込まれるかと思えば、名前まで央山に変えられ神社が設置されるなど、き損を繰り返した。50年余り前には山の周辺が個人たちに渡り一方的開発がなされた後に放置され、今は小さな丘の姿で残っている。王山裾に並んでいる巨大なケヤキ・榎らと14ヶの大小の観察使・牧使善政碑、愛民碑⑦などが、ここが旧尚州牧の中心地だったことを悟らせる。最も大きな碑が‘牧使李候清澗愛民碑’だが、長い首を傾けて笑っているような礎石の亀の表情にユーモアがある。保護樹の立て札がある樹齢400年の榎のそばの階段を上がれば‘伏龍洞石仏坐像’⑧(宝物)に出会う。頭と両肩、前面の手と両膝が全て包丁で切ったように無くなった姿だ。高麗初期の作品だ。頂上平地の片側には根元を露わにした欅と火災監視望楼を建てた跡がある。
←尚州王山 山裾の伏龍洞 石仏坐像(宝物119号).
乙巳条約(1905年)締結の時‘是日也放聲大哭’を書くなど、抗日志士だったが晩年に親日に背を向けた尚州出身の言論人 韋庵 張志淵(1864~1921)記念碑⑨を見て降りてくる。緑の木陰の下、亭子 ペクウ亭では年配の方々がひま潰しの花札の真っ最中だ。ペクウ亭の前を過ぎ、時計方向に王山をひと巡りしてみることができる。旧尚州劇場(現在はナイトクラブ)前の道を進む。小さな衣料品店・酒場らを過ぎて一杯飲み屋の集まった‘焼酎路地’を経てヤカンマッコリ屋の2階のコーヒー店に立ち寄り冷たいジュースを一杯飲んで、しばらく暑さを癒す。
曹渓宗布教堂の常楽寺の前をすぎて旧チョヒャン酒造跡の古い倉庫建物を見て郷庁(鄕社堂・風憲堂)⑩へ行く。地域の人々が地域発展を試みながら地方行政補助の役割も担当した所だ。日帝時、郡庁建物として使って以来、去る95年まで尚州郡守官舎として使われた。尚州都心に残った唯一の朝鮮時代の建物だ。広い旧尚州酒造跡には日本式家屋⑪と煙突などがほとんど放置されている姿だ。蔦に覆われた日本式家屋を見て写真を撮り、路地の中の洋装修繕屋のおばさんが話した。「こっちもあっちもありふれている倭式住宅ばかり。なんで写真をそうして撮るの」旧都心の隅々には古く崩れゆく日本式家屋がかなり残っている。
80歳の理髪師がバリカン持って歓迎するシンソン理髪館
←65年経歴の80歳の理髪師キム・ソンヒ氏が昔の写真や表彰状などを集めて作った‘流れ行く思い出’アルバムを見せてくれた。
理髪経歴65年に、一ヶ所で44年間にわたり住民の頭をなでつけてきたというシンソン理髪館⑫キム・ソンヒ(81)老人(写真)に会う。旧式椅子2つが全ての理髪館だ。このご老人が一生髪を刈って体得した技術を話してくれた。「さあ、頭が丸い人は鬢をガツンと決めて、細長い人はやや分厚く残さなければならない。そうすれば満足する。後頭はなんとか皆生かして。それにしても今はお客さんもないけど。」
←シンソン理髪館キム・ソンヒ(81)老人
天然キノコだけを使うという山キノコ食堂とソウル精米所を過ぎて、四つ角で東門跡の標石⑬(樹木理髪館前)に出会う。尚州城東門であるトンウォン門があった所だ。尚州城と4ヶの門楼は日帝時に全て取り壊された。城石は北川堤防を積むのに使ったという。道の向かい側のウォンイル工業社そばの鉄道路地に入る。慶北線の垣に沿って続く塀も屋根も門もやや低めの路地だ。空き家が多いが犬たちは路地から出ていけと吠えまくる。年配の方々が楽しそうに花札をして、将棋を打つ城東敬老堂の前の道に出て来て、ピアノ学院から流れてくる"楽しく踊ってそのまま休め”の歌を聞いて、また鉄道路地を歩く。鉄道側壁に沿って陸橋に至れば悪臭漂うごみ捨て場の横に小公園が現れる。古い家々を撤去して作った公園だ。散歩道⑭に沿って続く古い住宅街の壁は撤去した壁跡が明確だが、壁は素敵な壁画で装飾されていて散策して見物するに値する。
←鉄路横の壁画装飾小公園を自転車で通る学生
新興鉄工所前に出てくれば尚州駅を経て特別な見どころはなく出発点の市庁に戻る道だ。都心の中に生き残った製材所(尚州林業社)に出会う。40余年間こちらで木材を挽く仕事をしてきたというご主人は「10年前まで尚州都心に製材所が五ヶ所あったが、今は一つしかない」と話した。市庁前に歩く道。下校時間になり、わいわい騒がしい声を出す生徒たちの自転車がぞろぞろあふれ出て路地を縫い始めた。 4.5km歩いた。
escウォーキングマップ27.尚州 旧都心と王山. 地図グラフィック デザイン(※クリックすればさらに大きく見ることができます。)
ウォーキング メッセージ
町役場で無料自転車貸与
◎行く道|首都圏から嶺東高速道路、驪州分岐点で中部内陸高速道路に乗り、北尚州出入り口から出て3号国道で尚州市内に行く。
◎食べる所|山キノコ食堂(054-531-9225)サリボソッチョンゴル・サンヌンイ和えものなど、カチふぐ料理店(054-533-6010)ふぐ汁、南天食堂(054-535-6296)シレギヘジャングク.
◎都心周辺の見どころ|尚州博物館・自転車博物館・擎天台・尚州郷校・伏龍洞幢竿支柱など。市庁(南城庁舎),自転車博物館、各町役場に無料自転車が用意されている。 身分証を任せれば誰でも利用することができる。
◎旅行問い合わせ|尚州市庁(054)533-2001,尚州文化院(054)535-2339.
尚州=文・写真イ・ビョンハク記者 leebh99@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/specialsection/esc_section/428320.html 訳J.S