原文入力:2010-06-16午後04:08:09(4447字)
父親‘韓国’国籍を受け継ぎ北韓代表選手
なぜ時代の流れに逆らって‘朝鮮’を選択したのだろうか
←チョン・デセの抗議= 2010南アフリカ共和国ワールドカップ組別予選北韓-ブラジル戦競技で北韓のチョン・デセが判定に抗議している。 [ヨハネスブルク=ロイター]
南アフリカ共和国ワールドカップで北韓サッカー代表チームのストライカーとして活躍するチョン・デセは在日同胞です。父親の‘韓国’国籍を受け継いだが北韓の代表選手として活躍しています。彼はなぜ‘韓国’ではなく‘朝鮮’を選択したのでしょうか? 彼はなぜ多くの在日同胞が‘韓国’国籍を選択して、はなはだしくは‘朝鮮’から‘韓国’に国籍を変えたりもしている時代の流れに逆らったのでしょうか? チョン・デセが2008年7月<ハンギョレ>マガジン‘ESC’に送ってきた文を紹介します。当時、チョン・デセは5ヶ月にわたるワールドカップ3次予選を終え日本に戻った状態でした。文は6月22日ソウル、上岩ワールドカップ競技場で行った韓国との試合で無得点 引き分けの所感から始まります。
父親の‘韓国’国籍を受け継いだ私がなぜ朝鮮代表チームを選んだか(2008/07/02)
こんにちは。梅雨で気持ちが重苦しいチョン・デセです。今日も日本では朝から雨が降っています。皆さん、いかがお過ごしですか?
私は約4週間の海外遠征から日本に戻りました。久しぶりにくつろぐと自分のベッドが快適ですね。からだのコンディションを回復した後、6月24日から川崎フロンターレ チームに合流し、また練習にまい進することになります。
高3の時、修学旅行で行った平壌で宣言する
ようやく5ヶ月にわたる3次予選がついに終わりました。6月22日韓国、上岩ワールドカップ競技場で行った韓国との試合は惜しくも無得点で引き分けてしまいました。でも、観覧席で統一旗を振って応援して下さった方たちもいて、本当に感動しました。競技場にきて下さった方、テレビで試合を見てくださった方々、感謝申し上げます。とても待ちこがれた韓国で行う試合なので必ずゴールを入れるという覚悟で臨みましたが、残念な試合をお見せすることになり申し訳ありません。
先月14日の対ヨルダン戦を控えて、6月7日にヨルダンが韓国と引き分けたという消息を聞き、ヨルダンとの試合も容易ではないと予想したのですが、2対0で気持ちよく勝って(この日も私はゴールを入れることができなかったのですが…)最終予選に進出することになりました。
とにかく無事に最終予選に出られることになって一息つけました。そして韓国と共に最終予選に出て行くことになったことも本当にうれしいことです。守備に重点を置いたチーム戦術のために、考えたとおりに攻撃をすることはできませんでしたが3次予選で唯一無失点という記録を残すことができました。最終予選は今までとは違う難しい試合になるということは誰でも予想できます。私の希望をいうならば、必ず韓国、日本と同じグループで戦いたいです(6月27日に開かれたアジア最終予選組み合わせ抽選で、南と北は同組であるB組に配分された-編集者)
序論がちょっと長くなりましたが、今回のテーマは‘チョン・デセが朝鮮代表を選んだ所以’です。いったい私はいつから朝鮮代表になるという夢を見始めたのか。初心に帰って記憶を探りながら書いてみます。
いつだったか電話で母親と話をしたのですが、なにげなく「引出しを整理したらデセの小学校の時の作文が出てきた。‘私は将来必ず国家代表になります!!’と書いてあったよ」と言いました。日本でもJリーグ ドキュメンタリーなどでしばしば聞く良くある話かも知れないですが、恐らく小学生の時からそのような夢を大切に抱いてきたようです。
高校3年の夏、修学旅行で祖国を訪問した時のことです。平壌で過ごした最後の日の夜、サッカー部の友人たちと話をしていた私は、思わず浮き立った気持ちで「私は必ず祖国代表になってここに(平壌)に帰ってきます!!」と力強く宣言したことを今も鮮明に覚えています。この世に生まれて父親の‘韓国’国籍をそのまま受け継いだ私は何も知らずに皆の前で私の夢を宣言したのです。
朝鮮大学校に進学した私は迷うことなくサッカー部に入りました。2年の時に2004年アジアンカップ予選朝鮮代表として参加してみないかという話が舞い込みました。ところがその夢を阻んだのが私の‘国籍’でした。「私は勉強では他の学生より遅れをとるけれど、今まで総連系民族教育を受け愛国心と民族魂、誇りは誰にも負けません。私の国籍表記が‘韓国’ということに矛盾を感じながら暮らしてきたけれど、‘朝鮮’国籍を再取得して国家代表になりたいです。」何のためらいもなく当時のサッカー部部長に話しました。
‘朝鮮’から‘韓国’に変える時代に逆らって…
今、在日朝鮮人社会では国籍を‘朝鮮’から‘韓国’に変える人が多いのです。そのようにすることが旅行に行く時のビザ申請もやさしくて、朝鮮-日本関係が日に日に悪化している時に日本で暮らして行くことがどう考えても容易なのです。こういう時期に国籍を‘韓国’から‘朝鮮’に変えるということはあきれる話に聞こえたことでしょう。簡単に言えば災難が起きた時に皆が避難する方向とは逆に災難発生地に向かって自ら進むようなことです。でも、私にはそういうことは問題ではなく、唯一自身の夢に向かって走って行く私自身をむしろ誇らしいと思いました。
すべての手段を動員して‘朝鮮’籍を取得しようとしましたが結果はノー。私たちの家族は母親だけが‘朝鮮’籍、父親と姉と兄は‘韓国’籍であることに加え、日本と国交のある‘韓国’籍から国交がなく日本が‘国’と認めてもいない‘朝鮮’籍に変えることは日本の法律上、不可能だったのです。
目の前に近づいた夢が一瞬にして消えてしまいました。絶望感でご飯も喉を通らず、涙ばかりが頬を伝って流れました。何の罪もない父親を恨んだりもしたし、私の夢を自分の夢のように熱望してくれた母親も父親と言い争いをして夢のために家族までこわれる状況でした。それほど朝鮮代表になろうと思った私の夢は強烈だったし家族もまた熱烈に応援していたためでしょう。
2005年2月9日、そのような私をよそに日本、埼玉スタジアムでドイツ ワールドカップ最終予選 日本-朝鮮戦が開かれました。同じ在日同胞として朝鮮代表として招集されたアン・ヨンハク、イ・ハクジェ選手が日本マスコミが先を争うように迎える大事なからだになったことを羨望のまなざしで見守るしかありませんでした。多くの在日同胞たちがスタジアムに走って行きました。日本で生まれ育った私たちには日本で国家代表として走る試合は特別な意味があります。日本代表を相手に互角の勝負をして戦う朝鮮代表選手たちの姿を見ながらどれほど感動したでしょうか。そして‘国籍’問題さえなければ私もこの舞台に立っているかも知れないと考えると、一方では本当にうらやましいことこの上なく、また奥歯をぎゅっと噛みしめさせるよな悔しさが込み上げてきました。私は夢を放棄しました。
大学卒業後、プロとしてJリーグ川崎フロンターレに入団しました。夢をかなえられなかった悔しさも忘れプロで活動することだけに没頭して、きちんと試合にも出て行かなかった私に朗報が伝えられました。在日本朝鮮人サッカー協会をはじめとする周辺の皆さんが力添えしてくれて、日本での‘国籍’表記を交換しなくとも私の夢と民族に対する思いを評価した‘ウリナラ(我が国)’がパスポートを発行してくれることになったということです。言い替えれば、真の‘朝鮮人’と認められることができたということです。その時、一時はあきらめた夢が現実になったのです。正直に言えば喜びより驚きが先でした。そして私が生きてきた23年間の人生が走馬灯のように蘇りました。
日帝植民地時代に日本に渡ってきた祖父が生活基盤を整えて日本政府の不当な差別の中で朝鮮人として生き、その2世である父親,母親がその意を受け継ぎ私たちを‘私たちの学校’に送りました。小学校から大学までの16年間にわたる民族教育は私に朝鮮人の心を育ててくれました。授業カリキュラムとか大切な友人たちと付き合うことは日本の学校に通ったとしても同じだったかもしれないが、私たちの学校は日本の学校では習うことはできない我が国の話、歴史を教えました。国を愛する心、民族の魂と誇り、私が日本にいても朝鮮人として生きていく信念を植えてくれました。
“7年ぶりにもう一つの夢がかなえられた!”
こういう私の成長とその中で培養された愛国心、民族心が動揺しなかったから朝鮮代表として認められることができました。誰が導いてくれたのでもなく、まさにこれが‘チョン・デセが朝鮮代表を選んだ所以’かも知れません。父と母が私たちの学校を選択したことに感謝します。私を朝鮮人として育てた私たちの学校に感謝します。
代表となって初戦は昨年7月にマカオで開かれた東アジア選手権。日本で覚えた私の韓国語の実力が代表選手たちに通じるか、問題なく適応できるだろうかという不安と、必ず良い結果を出すという期待を抱いて夢の舞台へ行く第一歩を踏み出しました。しかし想像もできない環境の違い、サポート不足などで慌てるほかはありませんでした。
それでも、一言の不平不満も言わず常に全力を傾けてプレーする代表選手らと共に過ごしてみると、忘れていた魂がまたよみがえった感じがします。それは私がそのまま簡単にJリーグに入って、簡単に国家代表になったわけではないということです。日本の学校の半分にもならない私たちの学校の運動場でサッカーを始めて、周辺のサポートに心から感謝しながら、よそ見をせずにずっと走ってきた雑草魂の塊りがチョン・デセだ、と初心に帰ることができました。そして2008年2月、重慶での東アジア選手権、ワールドカップ アジア予選を朝鮮代表とともに戦ってきました。今は国家代表という自覚を固めつつ2010年の南アフリカ大会に向けた一念だけです。こうした多くの思いが満たされたプレーに対し、日本では‘人間ブルドーザー’というニックネームを付けてくれました。
高校3年の夏、友人たちに宣言した夢が叶いました。もう一度叫びたいです。“まさに今! 7年もかかったけれどもう一つの夢が叶ったよ!!”
チョン・デセ 朝鮮サッカー代表チーム選手・ Jリーグ川崎フロンターレ所属
原文: https://www.hani.co.kr/arti/sports/sports_general/425920.html 訳J.S