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日帝、朝鮮の「王の階段」をコンクリートで覆い…宮殿遺産への「テロ」

登録:2023-05-16 21:49 修正:2023-05-17 10:34
[現場]日帝時代、線路によりつぶされた光化門月台 
階段の中央部を割って雑石・コンクリートを打設 
復元しても一部はそのまま残し歴史教育に活用すべき
先月25日、取材陣に公開された光化門の月台発掘現場。南側に突き出した月台御道の階段の中央部を壊し、その上に雑石とコンクリートを打設し線路の基礎部とし、そこへ線路の枕木を置くという無知粗暴な工事の断面が赤裸々に表れている//ハンギョレ新聞社

 尊く厳かだった建築物は、テロと虐殺を被った現場だった。

 朝鮮の王と大韓帝国の皇帝が宮殿外に出る時だけ歩いた月台(ウォルデ)の壮大な階段と石道は、半分以上が粉々に砕けていた。破片の傷痕に雑石交じりのコンクリートがやみくもに塗りたくられ、その上に数百の重い線路と枕木が置かれた。

 先月25日、文化財庁が取材陣に開放したソウル光化門(クァンファムン)前の世宗路(セジョンロ)の月台発掘現場は、戦慄するものだった。100年前、日帝が朝鮮王朝の厳かな建築物に対して犯した空間的テロの実状が、一つひとつ明らかになった。

 光化門前の世宗路の南側に48.9メートル進んで突き出した月台御道階段の中央部を破壊し、その上に雑石とコンクリートを打設して線路の基礎部とし、線路の枕木を敷いた跡があらわになっていた。線路は光化門の東側に曲がり安国洞方向に延びた跡をそのまま残していた。反対側には、孝子洞側に曲がる路線がY字型を成して交差していた。

先月25日、取材陣に公開された光化門の月台発掘現場。南側に突き出した月台御道階段の真ん中を破壊し、その上に雑石とコンクリートを打設して線路の基礎部とし、直接線路の枕木を置いた跡が赤裸々に表れている。線路は光化門の東側に曲がり安国洞方向に向かっていた//ハンギョレ新聞社
光化門前で月台を覆いつぶした線路を電車が走行している。「東亜日報」1923年10月4日付の紙面に掲載された写真//ハンギョレ新聞社

 建築業界や工事現場では、基礎を築くために粗い石を混ぜて基礎部を固めるコンクリートを「捨てコン」や「粗コン」と呼ぶが、日帝の当局者たちは朝鮮で最も尊い階段と王の道をこうした荒々しい方法で破壊し、覆い隠して電車の線路を敷いた。

 文化財庁国立ソウル文化財研究所は、昨年9月からソウル市と発掘調査を行い、月台の全体規模(長さ48.7メートル、幅29.7メートル)を確認し、王の道である御道施設と長く整えられた長台石を利用して基壇を築造した構造なども確認したが、現場でこのような成果に劣らず注目されたのは、現在の地表より約70センチほど下にある月台施設物に1918~1923年の間に加えられた暴力的な侵奪の痕跡だった。

 尹錫悦大統領は、訪米日程を控えての米ワシントンポストとのインタビューで「100年前のことで日本に『無条件にだめだ』『無条件にひざまずけ』と言うのは受け入れられない」という問題発言をしたが、それに反論するかのように、日帝の空間的蛮行が行われた宮殿の顕著な痕跡が現れたわけだ。

旧韓末の光化門を横から見た姿。左側に三軍府の外行廊と月台の欄干石が見える。殿閣の下には小さな哨所も見える//ハンギョレ新聞社
1917年頃、電車の線路が敷設される直前に撮った光化門とその前の月台の様子。両側に月台の欄干石が並ぶように設置されている//ハンギョレ新聞社

 この激しい宮殿遺産テロの元凶は電車だった。月台が発掘された世宗路は、もともとソウルで最も広く大きな通りだった六曹通りだった。1917年5月26日、景福宮(キョンボククン)前で地盤工事をしていた朝鮮総督府庁舎の新築工事に用いる資材を運ぶため、まず貨物輸送用電車の線路が光化門の左側の門に敷設され、月台エリアは毀損の受難に見舞われはじめる。

 1918年6月から、現在の光化門交差点である黄土ヒョンから月台の前方まで乗客を輸送する電車の運行が始まり、運命の1923年秋、景福宮で日帝当局が朝鮮人教化のために常套手段として使っていた博覧会の一種である朝鮮副業品共進会が開かれると、動員した観客を運ぶ電車路線が景福宮の西側に沿って回り、迎秋門孝子洞まで敷設されるに至った。

 この時、月台は日帝が打設したコンクリートに覆われて地上の光を見ることができず、電車の線路に一世紀以上押しつぶされる悲運に陥ることになった。今は宮殿の石垣が取り外されて残っている東十字閣と対になっていた西十字閣が、線路敷設によって撤去されたのもこの頃のことだ。

先月25日、取材陣に公開された光化門の月台発掘現場。南側に突き出た月台御道の階段の中央部を破壊し、その上に雑石とコンクリートを打設して鉄路の基礎部とし、そこへ直接線路の枕木を置くという無知粗暴な工事の断面が赤裸々に表れている//ハンギョレ新聞社
先月25日、取材陣に公開された光化門月台発掘現場の南側階段の細部。南側に突き出た月台御道階段の中央部を破壊し、その上に雑石とコンクリートを流し込み、直接線路の枕木を置いた断面が赤裸々に表れている//ハンギョレ新聞社

 この日公開された現場は、仁王山(インワンサン)と北岳山(プガクサン)を背景に荘厳にそびえる光化門を背景に、月台とその隣の国防官庁である議政府(ウィジョンブ)三軍府の外行廊に沿って延びる二本の電車道、そして1866年に高宗(コジョン)が景福宮を再建するまで、宮殿のすぐ前まで立ち並んでいた民家の基礎部跡がきっちり残っている姿が一目で見え、まるでタイムマシンに乗って一世紀半前の現場に来たような感慨を感じさせた。

 問題は今後の復元方向だ。日帝の空間侵奪の様子が際立つ線路に押しつぶされた月台南側の突出階段と西側基壇部分について、文化財庁はひとまず、東側の基壇・階段が対称を成すため枕木などの線路部分を撤去して月台を完全に蘇らせ、景福宮復元の趣旨を生かすというのが基本方針だ。

 中央の御道部分については、ひとまず枕木を剥がし、その下の構造を見てから細部の復元方向を文化財委員らと議論すると前置きはしたが、月台の100%全面復元という原則を貫徹させる意志は明確に見える。

 だが、現場が与える視覚的惨状の強烈さのため、線路の一部は残して植民地時代の暴圧的な空間史を知らせる歴史教育の場として活用しようという主張が少なくない状況は、無視するわけにはいかないようだ。

 正宮としての景福宮の象徴性はもちろん重要だ。日帝によって破壊された月台の完全な復元にも名分があるが、すでに半分近く壊れていてほとんど新しく作らなければならない復元が、国民に対し確実な説得力を得るためには、遺跡が日帝の線路の下で壊れた生々しい断面そのものを生かす共存の哲学と復元デザインの代案を模索することも必要ではないか。

 現在、文化財庁は光化門月台遺跡の発掘復元に関する専門家の協議を、文化財委員会の宮陵分科と修理技術委員会復元分科に限定している。この事案は近代期の日帝の宮殿空間に対する侵奪史と深い関連があり、土層の保存上の問題とも切り離すことはできない。近代分科、埋蔵分科、史跡分科など他の分科の専門家たちとの深い議論を通じて、復元に対する議論を活性化する必要があると思われる。

文・写真 ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1091902.html韓国語原文入力:2023-05-16 18:17
訳J.S

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