「古朝鮮について発信できずにいた考古学界が反乱を起こした!」
最近、韓国の歴史学界ではこのような話が冗談半分で交わされている。先月初め、ソウルの国立中央博物館で開かれた韓国考古学会の第41回考古学全国大会が、前例のない論争の種を投げたためだ。
20世紀、朝鮮半島に近代歴史学が確立されて以来、鉄壁のように君臨してきた学説の一つが、朝鮮民族の初めての国家である古朝鮮の首都「王儉城」は平壌(ピョンヤン)だという通説だ。正確には、大同江(テドンガン)の北側の平壌(ピョンヤン)一帯にあったが、漢帝国が紀元前108年に古朝鮮を滅亡させ、川の南側に拠点(楽浪郡治所)を移したという植民地時代の日本人学者の推定が100余年間にわたり健在だった。1960年代以後、南北の学界では遼東が中心地だったが、紀元前3世紀に燕国の将軍、秦開の侵攻により平壌に移動したという説もあったが、最終立地が平壌という結論は揺るがなかった。ところが、考古学大会で王儉城は平壌に当初なく、古朝鮮の終末まで遼東にあったという学説が初めて公論化した。司馬遷の『史記』朝鮮列伝と5世紀の中国地理書『水経注』の王儉城考証記録に依拠して古朝鮮を研究してきた文献史学者は当惑した。一方、王儉城=遼東説を主張してきた在野の学者たちは「講壇史学が良心宣言をした」と喜んでいる。
論争の火ぶたを切ったのは、チョン・インソン嶺南大学教授だ。日本の東京大学で日帝強制占領期間の平壌出土楽浪遺物を研究し博士学位を受けた彼は、東京大学の所蔵品分析成果と遼東・遼西の古朝鮮系青銅器、土器に関する現場調査に基づいて、論文「考古学から見た衛満朝鮮王儉城と楽浪」を発表した。要旨は「漢帝国が遼東の王儉城を攻め倒した後、平壌に楽浪郡分所を別に設置した可能性が高い」ということだ。
論文の主張は挑発的だ。既存の王儉城大同江北岸説と遼東・遼西を含む古朝鮮領域論議などを検討し、最新の考古資料を総合した結果、「平壌城は王儉城が入ることのできない空間」と断定した。近代発掘が始まって以来100年余りが過ぎたが、今に至るまで平壌から考古学的物証が出てこなかったということが根拠だ。「1905年京義線の敷設で平壌駅付近を掘削して以来、大城山城、清巖里土城など大同江北岸の調査が進められたが、王城と見るに足るいかなる遺跡、遺物も確保されなかった」ということだ。これを後押しする定規は、王城城郭の跡だ。古朝鮮とほぼ同じ時期に漢帝国に服属した南越国(ベトナム)も王城城郭が中国の文物らと共に発見されたという点で、古朝鮮も城郭の中心としての実体を検証しなければならないという見解だ。チョン教授はさらに、衛満朝鮮が燕国、齊国の亡命者の国であるから、燕国、齊国の遺物文化が確認される遼東遺跡一帯に城を探さなければならないと主張する。「このような考古学的見地から、『王儉城大同江北岸説』は廃棄すべきで、王儉城は遼東に存続したが、漢帝国による郡県設置後に中心地が大同江岸に移転した可能性が大きい」という結論だ。
文献史学界は当惑を隠せずにいる。漢帝国が西側から海を越えて王儉城を攻撃したという『史記』の記録と、高句麗人が王儉城を平壌城一帯と描写した伝言が記述された『水経注』の内容を、チョン教授の説が完全に否定する格好になるためだ。ユン・ソンテ東国大学教授は「清巖里土城など発掘されていない平壌城郭が残っているのに、物証がないと断定するのは行き過ぎた解釈」としながら「遼東に王儉城が属したとすれば、歴史的に確証された漢帝国の遼東・遼西郡の位置も修正しなければならないが、根拠を当てられるか疑問」と話した。オ・ヨンチャン梨花女子大学教授も大会討論文で「遼東王儉城を陥落させたとすれば、なぜ数千里も離れた平壌に敢えて楽浪郡を置いたのか、納得できる説明が必要だ」と指摘した。
考古学界でこれまで古朝鮮は「絵に描いた餅」だった。分断後、現地遺跡に行くことができず、解放後に入手したり蓄積された資料もほとんどなく、日帝強制占領期間の伝来遺物中心の編年でも、楽浪郡と朝鮮半島南部の金属器文化の交流関係を計る程度に過ぎなかった。チョン教授の学説は、こうした限界の中で、2000年代以後に次第に公開されている中国と日本の関連遺跡・史料を総合して出した考古学界次元の初めての問題提起という点が評価に値する。
実際に論議に決着をつける最善の解決法は、北朝鮮の首席宮(錦繍山太陽宮殿)近隣にあるという旧平壌城壁などを切開し、集中発掘する調査であろう。だが、核危機と南北関係の梗塞で共同調査は夢見ることもできない実情だ。結局、王儉城の謎を解く鍵は「統一考古学」の課題として残すほかはないわけだ。