原文入力:2010-01-27午後09:21:43(4117字)
escウォーキングマップ18.浦項(ポハン),九龍浦(クリョンポ)と日本人家屋街
浦項,九龍浦邑事務所から造船所・市場・日本式家屋通りを経てサラクッ防波堤まで5km
イ・ビョンハク記者
←九龍浦邑,龍頭山裾の丘で出会ったイカ干し台.
浦項,迎日湾を抱える虎の尾の下側に九龍浦がある。真冬のクァメギで名が知られた故郷だ。路地ごと家ごとにクァメギ干し台が並んでいる。虎尾串(ホミコッ)で日の出と虎尾海岸線に沿って回り海風を楽しんだ観光客たちが行き来して冷たい焼酎にクァメギを包んで食べる。今は九龍浦ではズワイガニ・イカも盛りだ。食べ物に劣らず見どころも盛り沢山だが、十人に九人は知らずに通り過ぎる。十匹の竜が昇天し九匹だけ上がったと言うので九龍浦だ。残った一匹の龍のように九龍浦通りは入り江を囲んで長く曲がりくねっている。九龍浦邑事務所から出発し、造船所・九龍浦市場と日本式家屋通りを経てサラクッ防波堤まで歩く。
四日もあれば軽く大型船解体
村事務所の前庭に銛で鯨を撃って捉えた‘鯨銃’①2つが展示されている。九龍浦は1986年に鯨取りが禁止されるまで重要捕鯨基地の1ヶ所だった。捕鯨基地の名声も鯨の個体数減少とともに消え、錆ついた捕鯨砲2つが残った。龍頭山側に道を渡り‘正しく生きよう’碑石を過ぎ、柄浦(ピョンポ)三叉路で桜並木道(ポンナムキル)に下っていく。春にはまぶしい花のトンネルになるというところだ。柄浦里(柄里)は本来はジャレコル(スッポン村)だ。村にスッポンに似た岩があのでジャレコルだが、漢字で表記する際に間違って解釈しジャル(取っ手・柄)の字を書き柄浦になった。龍頭山裾に水産物加工工場が並んでいる坂道を上る。涼しげに広がる海を背景にイカ干し台②が立ち並ぶ。切るような風の中でイカを干す手ぎわが忙しい。
笹の森を過ぎて坂道を下って行けば、真っ青な海を抱いている九龍浦港の姿が一目瞭然だ。下りきれば‘船工場’,造船所③だ。昨年、最後の木船を作った後、今は船の修理場所として使われているという。盈德(ヨンドク)から壊れた船首を直しにきたという船、光明号の主人が鋳鉄ストーブの火に当たりながら話した。「ここの技術者たちは実力がとてもいいんだ。他の所は人も足りなくて」船を修理する実務は外国人労働者たちの持ち分だ。
新しい船を造った造船所のそばには古い船が生涯を終える廃船場④がある。巨大な船からはがして切り出した錆ついた破片をフォーククレーンでかき集め積む作業が真っ最中だ。「この船は船齢20余年になる79t鉄船でしょう。一隻解体するのに四日もあれば充分です。」(コ・ウンジョン・42・古物処理業者)廃船場のそばの山の下には船の安全を祈り竜王神に祭祀を上げる小さな霊廟がある。マッコリ壜がいくつか転がっている古い霊廟の雰囲気が廃船場に似ていた。坂道を上って、九龍浦女子中・高入口を経てマラソン同好人宿舎の‘マジンガーマラソン休憩所’前でイカ トロール船埠頭に降り立つ。雑魚販売場⑤側に歩く。
‘タン’という音とともにズワイガニの競売が始まった。獲ってきたズワイガニを床に並べ鐘を打ち競売の準備ができたことを知らせる。マイクを持った競売士と見えないように服の陰で入札価格を示す購買者たちの忙しい手・目の動き、わずか数秒ごとに一山ずつ落札される。魚販場の周辺で大ズワイガニ中級1匹4万~5万ウォン,中があまり詰まっていないムルケ小1匹4000~5000ウォン。
午前の日差しが降り注ぐ2階のノウル茶房側に大通りを渡る。58年間ふぐ汁を商ってきたという咸興食堂を過ぎて九龍浦市場⑥路地に入る。カレイでもカニでもエビでも何でも揚げてくれるという元祖天ぷら・オデン屋を過ぎれば、40年間一ヶ所でそうめん・中華麺・ウドンなど、麺類を作っている第一ククス(麺)工場が現れる。麺の束を一握り、エイッとつかんで縛って出す主人イ・スンファ(72)氏の手さばきが鮮やかだ。40年前にはこの路地に麺工場が九ヶ所もあったという。一番遅く始めた第一ククスだけが残った。30年間、看板もなしでかけうどんだけを売っているハルメククス屋も、40年以上ふんだんな海産物ククス(別名 モリククス)を商ってきたカクモリククス屋も、50年間ククス・蒸しパンを商ってきたチョルギュ粉食も、みな第一ククス工場のククスを買って使っている。4人分一束 2000ウォン。
←50年伝統の蒸しパン屋 チョルギュ粉食の蒸しパン・汁粉(タンパッチュク)・ククス。九龍浦小学校前にある。
九龍浦小学校前のチョルギュ粉食⑦に行く。おいしい蒸しパン屋としてうわさされる店だが、特にたった今蒸しあがったパンを熱い汁粉につけて食べる味が絶品だ。おかみのパク・サンヨン(67)氏が実家の母親からパンを作る手技を受け継いだ。夫のチョン・スセン(69)氏が話した。「私はただの飾りだよ。あのばあさんがみんなやるからね。あのばあさんが十二才の時からしているんだ。」小学校の前なのに幼い子供たちの姿はない。“昔の学生たちが常連のパン屋”だ。30~40代たちが昔の味を忘れられずに同窓会や契をしばしば開くという。蒸しパン3ヶ1000ウォン,ククス・汁粉2000ウォン。
中央路 旧日本人家屋街に向かって歩く。道のそばに小さな岩壁がある信協の向い側,農協路地の曲がり角に小さな立て札が一つ見える。九龍浦石門⑧。石門は朝鮮時代の九龍浦の裏山であるメバウィ山(鷹岩山)から東海面(トンヘミョン)興串洞周辺にまたがる大規模馬飼育場(長鬐牧場:チャンギモクジャン)に入る関門だった。長鬐牧場は高さ3m,長さ12kmに及ぶ石垣を積み1000頭余りの馬を育てたという。1988年まで高さ7.5mの石門(石柱)があったが、安全事故対応と交通疎通を理由に取り壊された。石門上部を切り村事務所の庭園に移した。
旧市外バスターミナルがあった長安洞四つ角を過ぎて、しばらく歩けば警察駐在所の建物を始め日帝強制占領期間の家々が姿を現す。路地ごとに50軒ほどの日本式家屋が散らばっている。大部分は錆ついてこわれ崩れていく様子で、完全な家は15軒ほどだ。浴場・医院・料理屋・旅館など、一部の建物には古の建物写真が貼られている。一部の家には畳部屋がそのまま残っており、裂けた壁紙の内側には昔の日本新聞の記事までがはっきり見える。
日帝時新聞貼った壁紙までくっきり
この通りは日帝強制占領期間に日本の岡山・香川県地域の漁民たちを集団移住させ形成されたという。日本人家屋通りに対する資料調査をしてきた九龍浦住民クォン・ソンヒ(45・詩人)氏は「ここに暮らしていた日本人たちが訪ねてきて当時の姿そのままの家を見て感動する人が多い」として「特にこちらで生まれた日本人たちは九龍浦を故郷と感じる」と話した。代表的な日本式家屋である橋本家屋は各種資料と物品を展示した展示館⑪として使われている。旅行者に対する配慮はしみったれている。通りや家々に対して説明した案内板もなく解説士もいない。
←浦項市,九龍浦邑,九龍浦中・総合高等学校前の道端に立つサラクッ灯台
道の脇の階段を上がれば九龍浦港がひと目で見える九龍浦公園⑨だ。朝鮮戦争の犠牲者を称えた忠魂塔と忠魂碑があり、一方には1942年に建てられた‘十河弥三朗(とがわ やさぶろう)頌德碑’⑩がある。十河弥三朗は九龍浦港建設に大いに寄与したという。セメントで塗られた頌徳費復元可否を巡り住民の間に賛否両論がある。公園に上がる階段の左右には石柱が並んでいる。頌徳碑建設を後援した日本人の名前を刻んだ碑石たちだが光復後に名前をセメントで塗り後方に護国英霊の名前を刻み再び建てた。
日本式家屋の路地を出て大通りを渡り防波堤に行く。砂場の終わりの部分なのでサラクッ(サラマル)と呼ばれる地域だ。防波堤の入口にもう一つの日帝遺物がある。これもまた十河弥三朗が関与した防波堤拡張工事(1935)竣工碑⑫だ。ここまで5km。
ここから地方道に沿って10分余りさらに歩けば、九龍浦中・総合高前に立つサラマル灯台に出会う。路肩が弱いので車は注意
←(※クリックすればさらに大きく見ることができます。)
ウォーキング メッセージ
◎首都圏から嶺東高速道路,驪州分岐点で中部内陸高速道路に乗って下り、金泉分岐点で京釜高速道路に乗り移る。大邱,道洞分岐点で大邱~浦項高速道路に乗り浦項出入り口に行く。ポスコ・浦項空港側に直進し31号国道に乗り九龍浦立て札を見て出て行き929号地方道に沿って九龍浦町へ行く。村の入り口に村事務所がある。雑魚販売場の左右にも駐車場がある。
◎クァメギやズワイガニは入り江周辺の大部分の食堂で出会うことができる。長安洞裏路地のカックネモリククス(054-276-2298)。カジカ・ズワイガニ・アンコウ・イガイ・ホヤにもやしを添えた具だくさんなククスを出す。澄んだ汁を望めば粉トウガラシを抜いてくれる。1人分5000ウォン(2人以上注文)。九龍浦小学校前のチョルギュ粉食(054-276-3215)。ホウレン草を添えた暖かいククス(2000ウォン)。小ぶりで腰の強いあんパン,汁粉のみを売る。午前9時に開店し蒸しパンは11時頃から売る。ふぐ料理専門咸興食堂(054)276-2347.鯨肉専門サモ食堂(054)276-2991.
◎九龍浦邑事務所(054)276-2565.浦項市庁(054)270-2114.浦項文化院(054)242-4711.浦項駅(054)270-5837.浦項ターミナル(054)270-5836.
浦項=文・写真 イ・ビョンハク記者 leebh99@hani.co.kr