原文入力:2010-01-13午後10:24:03
escウォーキングマップ17.水原華城内 旧都心
水原華城,南門 八達門(パルダルムン)から栄洞市場・華虹門を経て八達門まで5km
イ・ビョンハク記者
←水原華城の南門である八達門。後方の大きな建物が八達門で、前面は門を守るために積んだ甕城の一部だ。
18世紀の東洋を代表する城郭であり朝鮮伝統建築の完成品に挙げられる水原華城。正祖が父親の思悼世子の墓を水原華山に移した後、2年9ヶ月(1794年1月~1796年9月)かけて完成した新しい都市だ。丁若鏞(チョン・ヤギョン),蔡濟恭(チェ・ジェゴン)など当代の知識人が築城に参加した。1997年に世界文化遺産に登録され、以来数多くの探訪客が華城城郭道に沿って歩きまた歩いた。城郭道で出会う曲がりくねった城壁と左右に開ける展望が圧巻だ。城内路地では爛熟した生きざまの痕跡が待っている。華城南門,八達門①から始まり栄洞市場②・華虹門・華城行宮を経て、再び八達門に戻る。
水原名物 ヤンニョムカルビの元祖
宝物に指定された建築物に相応しく八達門はどちら側から眺めても雄壮で美しい。2層門楼の屋根にも門外に築き上げた甕城にも白い雪が降りつもり、その姿が一層際立っている。八達門周辺は1980年代まで水原の中心繁華街だった。チョ・ヨンピルなど有名歌手の公演が大部分八達門の上で開かれたという。
通りには薬局が並んでいる。薬局が集まり‘薄利多売’競争を行い、一時「全国一、薬価が安いところ」として名をはせた所だ。車両がぎっしり並んでいる‘車のない通り’を経て栄洞市場に入る。1919年に開設され水原で最も長い歴史と規模の大きさを誇ったという市場だが今は衰退の道を歩んでいる。八達門外にあるので門外場と言われた市場だ。3代目になる水原ヤンニョムカルビ屋として有名だった華春屋(ファチュンオク)もこちらにあった。市場の命脈は韓服・ふとん屋数十ヶ所が残り続いている。代を引き継ぎ70年間にわたり韓服屋を開いている水原綢緞のク・ヒョンソ氏が語調を高めた。「死にゆく市場を生かしてくれといったのに対策もなしに覆蓋川駐車場を取り壊し、お客さんがより一層減ることになりました。」水原川覆蓋駐車場では最近、河川復元工事を始めた。
川の向かい側の池洞市場③スンデタウン④に入る。スンデ・モリッコギ・コプチャンを売る食堂25ヶ所が集まった広い室内空間だ。熱いスンデ汁の鉢のそばに焼酎の杯を添えている人々が多い。姉妹家(チャメチブ)も故郷家(コヒャンチブ)も、おふくろの家(オムマネ)も元祖おふくろの家もスンデ汁5000ウォン,牛ゴプチャン1万ウォンの均一価格だ。
水原川水路に沿って歩く。城郭が切れた地点、水原川水路に城の南側水門(南水門)があった。1922年の大洪水の時に傾き崩れてしまった。水原川水路は90年代中盤に市で全面的な暗渠化工事を推進したが、市民団体などの反対で生き残った。華城研究会事務局長ヨム・サンギュン(51)氏は「市民たちが道端に横になり寝て反対し、河川に蓋をする工事を阻んだ」と話した。
流行歌のテープを売る手押し車から流れ出る "あなたはご存知ない、どれほど… ”を聞きながら南水橋を渡り、鐘閣⑤側につながる路地を歩く。一時、いわゆるルームサロンが密集した歓楽街だったが、今はほとんど消え鶏の丸焼き店などが生じ酒飲みを呼び集める通りだ。演劇・美術などの芸術団体が水原文化の跳躍を夢見て賃借りしている‘水原文化サラン’とギョーザで有名な中華料理店‘水原’を過ぎ、鐘閣である與民閣に行く。鐘閣は華城を漢陽のような都城体制に格上げするために華城行宮前の四つ角に建設した。日帝時に焼失したものを2008年に新しく建て鐘も新しく鋳った。本来あった鐘は1911年,正午時報用に使うために八達門に懸け‘八達門銅鐘’と呼ばれた。2008年に水原歴史博物館に移し保管中だ。
←水原華城博物館の前に集められた善政碑.
道の向かい側の華城博物館⑥に行く。世界文化遺産華城の築城過程と文化的価値を深く覗き見ることができる空間だ。築城の全貌が含まれている<華城城役儀軌>,思悼世子が下した命令により築城を指揮した蔡濟恭の肖像などを見る。野外展示場には城石を持ち上げるのに用いた挙重機とロクロの模型,善政碑の群れが見られる。入場料2000ウォン.
←伝統窓戸について説明する京畿道無形文化財 小木匠(建具)キム・スンギ氏.
橋(梅香橋)を渡り仏教眞覚宗横道に入れば京畿道無形文化財のキム・スンギ(70)小木匠(建具)の作業室と展示館⑦がある。14才の時からずっと建具作業をしてきた匠だ。美しい伝統花模様の建具を鑑賞できる。キム氏が作業室の壁にかけられた かんな などの道具を示した。「あのかんなが我が家の家宝だよ。誰かが一度、道具がいくつかと聞いたので、数えてみたらおよそ400ヶだったよ。”“ちょっと一杯だけやろう”と言う彼と、技師食堂の故郷の家(コヒャンチブ)でマッコリ椀を持つ彼の手を見た。傷のない所はない、いくつかの指は切られて先が短くなった手。唯一つの道を駆け続けた人生の痕跡だ。
故郷食堂とごった煮で有名な路地裏食堂 サイッキル(抜け道)に若い地域芸術家たちの展示空間‘ヌン ギャラリー’がある。2月末まで休館するという立て札が掲げてあった。引き返して七ヶの虹型水門が美しい華虹門⑧(北水門)に行く。雪に覆われた華虹門と後方に見える訪花隨柳亭⑨の姿が絵のようだ。華虹門は紙幣の図案に登場した国内最初の文化財だ。1909年に韓国銀行で華虹門図案を載せた1ウォン紙幣を発行した。
城郭に沿って長安門⑪側に歩く。城郭内の北水洞(プクスドン)には大規模な牛市場があった。日帝強制占領期間に大繁盛し城外の迎華洞(ヨンファドン)に移り、60年代まで牛を取り引きし水原ヤンニョムガルビが名声を得ることになる基礎の役割を果たした。長安門そばの城郭の雉城(北東雉)と敵の接近を防ぐために門の左右の城郭に設置した敵台(北東敵台)を見て長安門わき腹に入る。長安門は華城の北門であり正門だ。朝鮮戦争の時、米軍の爆撃で破壊されたものを1970年代に復元した。
華城行宮に向かって歩く。行宮前に華寧殿⑬から見る。華寧殿は1801年に純祖正祖の徳を賛えるために造った霊廟だ。華寧殿の塀そばには国内最初の西洋画家であり詩人だった羅蕙錫(ナ・ヘソク 1896~1948)生家の場所⑫標示石がある。彼を賛える‘ナヘソク通り’が八達区,仁溪洞に造成されている。華寧殿そばの新豊初等学校は1896年に開校した水原で最も歴史のある学校だ。開校前には華城官衙の客舎(于華館)があった所だ。
市民の力で守った伝統
行宮に入る正門である新豊樓前の左右には巨大なケヤキが向かい合って立ち旅人を迎える。華城行宮⑭は正祖が下ってきて臨時に居住した別宮だ。総44棟576間規模の仮宮で、正祖は母親の恵慶宮洪氏の還暦祝いをここで開いた。日帝強制占領期間に大部分が撤去され科挙試験を行った南門だけが残ったが、最近大々的な復元工事で本来の姿を取り戻した。当初、仮宮の場所には京畿道立水原病院の高層ビルが建つ計画だったという。地域住民の猛反対で病院は亭子洞に移り大々的な仮宮発掘作業を通じて過去の姿を取り戻すことになった。
電信柱を抜き商店の看板に伝統の絵を描き新しく掲げた‘レジデンス キル’を過ぎ、大通りに出ると再び八達門の素敵な姿が近づく。道の向かい側の工芸品常設展示場 カビン ギャラリー(代表 チョ・ソンジン・華城研究会理事)に入り、凍えたからだを溶かした。ギャラリーの2階では1月16日から2月3日まで城内独居老人を助ける慈善バザー会が開かれる。ここまで約5km歩いた。
←(※クリックすればさらに大きく見ることができます。)
ウォーキング メッセージ
◎自ら運転| 京釜高速道で水原出入り口や嶺東高速道路 北水原出入り口,東水原出入り口から出て、水原に行く。ソウルから1号国道に乗り儀旺を経て行っても良い。八達門付近に八達駐車タワーなどの駐車場がある。
◎大衆交通| 江南駅交差点から10分間隔(3000,3001,3009番バス),蚕室駅から20分間隔(1007-1,1007番),舎堂駅から10分間隔(7000,7770番)バス運行。電車1号線 10分間隔運行.
◎旅行情報| 水原観光案内所(031)228-4672,水原華城研究会(031)226-7223,水原華城博物館(031)228-4205.路地裏食堂(ごった煮・魚煮物・エイ刺身) (031)245-9158,ヨンポカルビ(031)255-1337,チョンサンカルビチム(031)243-8177.
水原=文・写真 イ・ビョンハク記者 leebh99@hani.co.kr