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1489人の学籍簿を隅々まで…日本帝国主義の民族差別の「顕微鏡解剖」

登録:2021-02-01 05:52 修正:2021-02-01 15:57
1925年に開校した江景商業学校の1489人分の学籍簿をくまなく調べ、「日常での差別」を実証 
「朝鮮族・脱北民・移住労働者に対する差別を乗りこえてこそ、韓国社会は先進化」
1920年、江景商業学校の生徒らが連合体操をしている様子=青い歴史提供//ハンギョレ新聞社

[書評]『植民地民族差別の日常事:中等学校入学から就業後まで』 
チョン・ヨンテ著/青い歴史

『植民地民族差別の日常事:中等学校入学から就業後まで』チョン・ヨンテ著/青い歴史・2万ウォン//ハンギョレ新聞社

 「悪魔は細部に宿る」という言葉は、「神は細部に宿る」という言葉と違いはない。小さく細かい細部がいかに重要なのかを力説する洞察だ。概略は容易にみえるが、細部は莫大な時間と努力を注ぎ込まずには、把握は難しい。主題意識が強い言説であるほど、詳しく覗きみてみると粗末で乱雑なケースが多いのも、同じ論理だ。巨大な言説を裏付ける小さな話の大切さを忘れるケースが多いが、世の中が混濁しており、対決の構図が複雑であるほど、“細部”の価値は高くならざるをえない。だからこそ『植民地民族差別の日常事』は非常に歓迎すべき著作だ。植民地期の日本帝国主義の朝鮮半島支配は、様々な差別を設け、これを武器として進められた。朝鮮半島に住んでいた朝鮮人が日本人から深刻な差別的支配を受けていたことを知らない人はいないが、その差別の具体的な内容は、曖昧な部分として残っている。この本を書いたチョン・ヨンテ教授(カトリック大学国史学科)は、民族差別という言説の細部を顕微鏡で覗きみるように暴いた。

 研究方法論から話そう。この本の副題である「中等学校入学から就業後まで」は、著作の過程がいかに困難だったかを示している。「中等学校」は、現在も忠清南道論山市(ノンサンシ)江景邑(カンギョンウプ)南校里(ナムギョリ)にある江景(カンギョン)商業高等学校だ。1920年に全国で7番目に設立された商業学校だ。著者は、民族差別の神髄を植民地教育から探ることにして、そのなかでも十分に公開された法的・制度的な差別の他に、慣行的な差別に注目する。朝鮮人と日本人を区分し教育することにより民族差別が露骨化した小学校と人文系中等学校よりは、最小限の制度的な試験を経て選抜した一定水準の朝鮮人と日本人の生徒を同じ教育施設で同じ教育課程により指導し教育した商業学校を研究・分析対象として設定した。何より驚くべきは、データベース化の規模だ。開校してから解放前までの25年間に江景商業学校を卒業した朝鮮人と日本人の生徒977人、中退者512人など全1489人の学籍簿を一つひとつコンピューターに記入し分析した。このレベルの学籍簿の分析は、韓国国内の研究からは見つけるのが難しい試みだ。これに加え、韓国近代史の研究で初めて、校誌に添付された「同窓会会員名簿」や、解放前後に同窓会が発行した「同窓会名簿」なども全てデータベースに記録された。この他にも、校誌や生徒の日記、韓国・日本両国の卒業生の同窓会報だけでなく、面談と口述資料までが、この本の土台を成している。微視研究の緻密さを示す端的な事例だ。

1930年の江景商業学校の卒業記念写真=青い歴史提供//ハンギョレ新聞社

 民族差別は、新入生の選抜から卒業とそれ以後の就職まで、一貫するように極めて細部的になされた。入学試験の競争率がまずそうだ。朝鮮人の入学競争率は最低で4.3対1(1921年)であり、最も高い時は15.3対1(1927年)にまで高まった。一方、日本人は最低で1.0対1(1921年)、最高で2.6対1(1932年)にとどまった。形式的には民族の区別なしに志願できたが、実質はそうではなかったことを示しているが、これは朝鮮人が多く志願してもそれだけ選ばれるのも難しかったという点で差別的だ。 実際、当時の江景一帯の朝鮮人社会で民族差別的な選抜慣行に不満が炸裂しはじめたのは、1925年だった。その年、日本人は40人ほどが志願し29人が合格したが、朝鮮人は120人ほどの志願者のうち21人だけが合格すると、ただちに「人口比でみても1割にも満たない日本人を、9割以上の朝鮮人より多く受け入れるというのは、どういう理由なのか」などの保護者の抗議があったと、当時の新聞が報道した。

 生徒の指導においても民族差別は明らかだった。卒業生1人当りの平均懲戒件数は、朝鮮人が0.25件(118件/481人)であったが、日本人は0.13件(39件/300人)だった。そしてそのような流れは、日帝末期になるほどより一層強化され、1940年基準では朝鮮人の平均懲戒件数は0.18件から0.33件に増える。同じ方法でこの本は、学業評価、学事懲戒・中退、就職、就職後まで精密に解剖し、民族差別が日常的にされていたことを証明していく。

 日常で差別をした主体は教師だ。すべての日本人教師が積極的に差別行為をしたのではないが、大抵は傍観することで差別に同調していた風土がはびこっていたことを示す。

 著者は二つの事例を提示する。朝鮮人生徒が学校の講堂で昼寝をしていたのが発覚すると、「凶悪犯や思想犯」に対するかように「野蛮で非人間的な」体罰を受けた。講堂に天皇夫妻の写真がかかっていたという理由からだ。この時、多くの日本人教師は傍観したという。また、汚名を着せられ思想犯として追われた朝鮮人生徒に対し、処分軽減や警察への告発の中止を要請したにも関わらず、生徒が投獄されると、ただちに日本人の担任教師は辞職した。しかし、悪名高い日本国粋主義の教師が主導し職員会議で警察への告発を決め、その生徒が制服の身なりで手錠をかけられ連行される過程で、大多数の教師は沈黙した。

1936年、江景商業学校の朝礼の光景=青い歴史提供//ハンギョレ新聞社

 大多数の教師は民族差別の意識が内面化されていた。神話と捏造された歴史に基づく「朝鮮半島朝貢国史観」から始まり、人種論的文明論、国民性論、日鮮同組論などが入り混じり彼らの内面に根付き、それを通じて「文明日本と野蛮朝鮮」という民族序列化の構図の朝鮮蔑視・差別観が深化し、日本社会と朝鮮半島にいる日本人社会はもちろん、日本人教授にまで拡散したと著者は説明する。 すなわち、これは今でも日本で横行する問題的な歴史意識の根源であるのだ。

 著者は木を一本ずつ注意深く観察するが、森も見逃さない。学校で生じた民族差別は、貧富や性別、学歴をめぐり生じた全体の差別におけるはっきりとした一部分だ。日本帝国主義の植民地の朝鮮人に対する差別は、日本に対する批判でのみ終わることではないという認識の拡大も必須だ。こんにち、この韓国社会でともに生きている「朝鮮族」の同胞や脱北民、移住労働者および結婚移民などに対する私たちの認識は、「文明対野蛮」の認識から抜け出せているだろうか。「韓国社会が新たな近代性を発信する先進社会に大転換」しようとするならば、「不公正かつ不合理で不正な各種の差別問題から省察し、乗りこえなければならない」。

キム・ジンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/980929.html韓国語原文入力:2021-01-29 11:40
訳M.S

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