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日帝、米軍、財閥に相次いで災厄もたらした「松ヒョン洞の土地」の運命は?

登録:2020-04-30 03:09 修正:2020-04-30 09:59
[ノ・ヒョンソクの時事文化財] 
土地を所有した日本、米国、財閥 
「禁断の気運」の前で厄災絶えず 
23年間再開発なく博物館そのもの 
韓進による売却後、公園としての保存願う
最近、韓進グループが売却方針を明らかにし、歴史文化公園化議論が本格化したソウル松ヒョン洞49-1番地の旧米国大使館宿舎跡(約1万坪)の全景。景福宮から北村に入る玄関口に当たる。27日昼、南側のツインタワーから見下ろして撮影//ハンギョレ新聞社

 ソウル城内で最も地相がきつい所だという。先月、韓進グループが売却を決定し、土地の運命に関心が集中しているソウル鐘路区松ヒョン洞(チョンノグ・ソンヒョンドン)49-1番地、旧米国大使館職員宿舎跡の1万1084坪(3万6642平米)に対する世間の評価だ。

 もともとは景福宮(キョンボックン)の外側を囲む外苑(外側の森)だった。この貴重な土地は、1997年に国防部がサムスングループに譲渡して以来、23年間にわたって再開発がまったく行われていない。その前の所有主だった日帝と米国、旧韓末(大韓帝国末期)の有力者たちも、手痛い後日談を残して去らなければならなかった。約200年の間にこの地に入ってきた金持ちや権力者には災厄が絶えなかった。権力と財力を前に、一筋縄ではいかない機運を保ってきたということだ。

緑に覆われた松ヒョン洞の土地の様子。北西に位置する司諫洞の建物から撮った風景//ハンギョレ新聞社

 松ヒョンとは「松がぎっしりと生い茂った松の峠」を意味する。この地名がいつから使われていたのか、正確な記録はない。もともとは正宮である景福宮から別宮の昌徳宮(チャンドックン)に行く際の最初の関門である白岳山の支脈の高い峠だった。景福宮が丸見えとなる要地だったため、家を建てることを禁じ、宮殿を囲む外苑としたのだ。

 タブーを破ったのは、朝鮮末期の安東金氏の有力者だった。1830年、純祖(スンジョ)の娘、福温(ポゴン)公主がキム・ビョンジュに嫁ぐ際、松ヒョン洞に敷地を与え昌寧尉宮(チャンニョンウィグン)が建てられた。その後ここは、旧韓末に親日派のユン・ドギョン、ユン・テギョン兄弟のものとなる。彼らは堂々たる屋敷を建て、アン・ジュンシクなどの画家に家の絵を描かせ威勢を誇示したが、弟のユン・テギョンは莫大な借金を作り中国の北京に逃走し、惨めな暮らしの中でこの世を去った。ユン・ドギョンの家も1938年に朝鮮殖産銀行の手に渡る。1919年から松ヒョン洞を占有した日帝は、植民地収奪機関である殖産銀行の社宅用地として用いた。両班(ヤンバン:李氏朝鮮時代の支配階級)の根拠地だった北村(プクチョン)の入口に日帝機関の社宅が建てられたことは、朝鮮の没落を象徴していた。日本は1938年、松ヒョン洞全域を殖産銀行の社宅用地として確保したが、わずか7年で敗戦し、追い出されることになる。

緑に覆われた松ヒョン洞の土地の様子。南に中学洞と安国洞の高層ビル群が見える。西北に位置する司諫洞の建物から撮影//ハンギョレ新聞社

 この地の主は、1949年にこの地を譲り受け1990年まで大使館員官邸として使った米国政府に変わる。殖産銀行社屋にそのまま居座り、41年間にわたって主としてふるまった。1990年、ソウル徳寿宮(トクスグン)のソン源殿(ソンウォンジョン)跡地の旧京畿女子高校跡と等価交換し、大使館の宿舎を移転しようとしたが、韓国市民団体の反発で失敗し、宿舎は龍山(ヨンサン)の米8軍基地に移した。

 1997年、国防部から1400億ウォン(約122億円)でこの土地を買収し、2008年まで所有したサムスン家も、やはり災厄の前で挫折を味わった。フランク・ゲーリーの設計により大型美術館を建てようとして断念した雲泥洞(ウンニドン)の土地の代替地として、美術館とデザイン教育院を含む文化団地が構想された。しかし土地を購入するやいなや、わずか3、4カ月後にIMF救済金融事態が勃発し、水泡に帰した。美術館は結局、漢南洞(ハンナムドン)の文化団地予定地に移り、2004年にリウムとして開館する。その後、この地は鶏肋(大して役に立たないが捨てるには惜しいもの)のように残っていたが、サムスンがリキテンスタインの絵『Happy tears』に絡む「裏金事件」で直撃を受けた直後の2008年、韓進(ハンジン)へと渡る。韓進グループは故チョ・ヤンホ会長の宿願事業として7つ星のホテルの建設を進める中で、朴槿恵(パク・クネ)前大統領の庇護を受けてホテル関連法の改正まで推進した。しかし「ナッツリターン・パワハラ事件」によりブレーキがかかる。

ドキュメンタリー写真家のキム・ハニョンが1978年に撮った景福宮周辺の風景写真の細部。東十字閣のうしろに位置する松ヒョン洞一帯に当時の米国大使館職員宿舎の建物が並んでいるのが見える//ハンギョレ新聞社

 実は、このような来歴よりも、松ヒョン洞の地は2010年に行われた発掘の成果により注目を浴びた。朝鮮末期と近代期の数十カ所の家の跡や井戸などの遺跡が発掘され、韓国近代都市考古学の出発を告げたのだ。底に穴をあけた大きな甕を3つ重ねて地面に埋め、地下水脈とつないだ井戸は学界で話題になった。松ヒョン洞の地は実際、朝鮮後期から近代期へと移る都市の住居の様相を生々しく残す生きた博物館であるわけだ。

 こうした姿を復元して残し、(公平都市遺跡展示館のように)きれいに造園して、朝鮮史と近代史が入れ替わる歴史・自然都市公園として保存してはどうか。その中にどんな文化施設を入れるかは後から考えても遅くない。青草に覆われた松ヒョン洞の地は周辺の風景を潤してくれる。ビルから見下ろすと、神秘的でおぼろげな雰囲気を醸し出している。非武装地帯(DMZ)がソウルのど真ん中に移ってきた感じだという言葉が実感できる。

文・写真 ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/942552.html韓国語原文入力:2020-04-29 17:20
訳D.K

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