原文入力:2009-11-19午後09:32:17
キム・フンギュ,ユン・ソンテ教授 論争
ユン・ソンテ "日本,歴史学者 談論発明し継承"
キム・フンギュ "過剰解釈…7世紀末から存続"
イ・セヨン記者
←675年新羅と唐が買肖城(メソソン 現在の京畿漣川郡,青山面)一帯で行った戦闘場面記録画。現行国史教科書はこの戦闘と1年後に起きた伎伐浦(キボルポ)海戦で勝利することにより、新羅が唐の勢力を韓半島から追放し、ついに三国統一を成しとげたと記録している。新羅の統一時点を高句麗滅亡(668年)ではなく羅唐戦争の勝利と捉えているわけだ。
‘統一新羅’を巡る歴史論争が漸次佳境に入っている。キム・フンギュ高麗大教授が去る9月、季刊<創作と批評>秋号に書いた‘新羅統一談論は殖民史学の発明品か’という文が導火線だった。ここでキム教授は今日通用している統一新羅談論が日本近代歴史学の助けで‘発明’されたというユン・ソンテ,ファン・ジョンヨン東国大教授の主張に対し「近代と植民主義を特権化し歴史理解を不当に単純化している」と批判した。ところが当事者の1人であるユン・ソンテ教授が今週発刊された<創作と批評>冬号で、キム教授の文にいちいち反論した。ところで両者の攻防が実証と論理だけに依存して進行されているわけではないという点がどうもスッキリしない。誤読と誇張に意図的もみ消し、侮蔑感を与えんがための捩れた殺傷性言語が随所にあふれていたためだ。
問題となった‘統一新羅発明論’はユン教授が2007年に書いた‘統一新羅の発明と近代歴史学の成立’で陳述した主張だ。核心は三国統一の完遂時期を新羅が羅唐戦争で勝利した時(676年)と見る今日の統一新羅談論が日本の歴史学者,林泰輔が1892年に書いた<朝鮮史>に初めて登場し、以後旧韓末の国史教科書に受容された後、植民地時代民族主義史学に継承され今日の公式歴史解釈に位置したということだ。
ユン教授が見るには、林の主張は新羅の統一時点を百済・高句麗滅亡期(668年)と設定していた韓国の伝統歴史書物に比べ完全に新しい意味を持つ。韓半島の初めての統一国家が‘中国という他者’との対決の中で成就したという想像の余地を開いてくれたことにより‘国民’形成の基礎となる共通的歴史認識の原形を提供したためだ。それでは、林はなぜこういう談論を‘発明’したのだろうか。ユン教授はこれが清からの朝鮮独立を追求した当時の日本のアジア連帯主義と連結していると見る。
キム教授はこういうユン教授の主張が林の歴史記述に対する過剰解釈から始まった誤りと見る。林が三国統一に対して記述した部分のどこにも‘新羅が唐との戦争に勝利したことにより統一を成しとげた’という内容は登場しないということだ。むしろ、キム教授は統一過程に対する林の記述は羅唐の対立を‘戦争’ではなく‘小規模衝突’と描写し、新羅の領土占有を積極的闘争ではなく窃取の結果と縮小しており、内容自体も<三国史記>を借用したもので<三国史節要><東国通鑑>のような後代の歴史書物に繰り返し登場していると逆攻する。
←キム・フンギュ,ユン・ソンテ教授論争
実際、ユン教授が引用した<朝鮮史>には新羅の統一過程について羅唐が連合して百済・高句麗を滅亡させた後、"唐がその土地に都督府を設置したが、新羅がますます百済の土地を取り高句麗叛衆をかき集め" 唐の怒りと侵略を招き "新羅王が偽りで謝るが、ついに高句麗南側境界にまで州郡を設置した" と記述したのが全て。どこにも‘新羅の勝利’や‘統一’の完遂時点に関する話はないということだ。
ユン教授はこういう批判に対して "キム・フンギュは歴史がどのように構成されるかを全く理解していない" とし激情を表わす。統一に対する林の記述が金富軾の<三国史記>や後代の各種史書に登場する記述と同じであることは事実だが、それに対する解釈においては金富軾や他の史家らとは全く違う姿を見せているということだ。金富軾らが "事大秩序に陥没した儒学者だったために羅唐戦争の勝利を通じて三国統一が完成されたと想像することはできなかった"ばかりでなく、むしろ "唐に抵抗したために統一の手柄まで失うことになったと批判" した反面、林は唐勢力の対称点に新羅だけでなく百済・高句麗の流民までも含めて配置することにより、全く違う想像に基づいた新しい歴史を構成しているというのがユン教授の解釈だ。
結局、争点はまた初めに戻る。新羅が唐の勢力を追放することにより統一が達成されたという今日の“自明な”三国統一談論が一体いつ初めて登場したかということだ。キム教授は“三国統一談論が7世紀末の新羅で形成され朝鮮後期まで何回も再編成と転位過程を経て動的に存続してきた」と話すのみで現行国史教科書の‘唐追放基点論’が具体的にいつ登場したかに対しては沈黙する。<朝鮮史>が最初だというユン教授の主張も不完全なことは同じだ。林が‘百済・高句麗の滅亡’と‘新羅の統一’を別個の場に分離して記述したという事実、<朝鮮史>の執筆には“アジア連帯主義の影響下で朝鮮を清国から独立させなければならないという当時の日本知識人の屈折した希求が含まれている”というユン教授の推定の他には主張を立証するに足る明確な根拠が見当たらないためだ。
もちろん積極的な奮発が要求されるのはキム教授側だ。どうであれユン教授は自身の主張を裏付ける情況証拠は提示した形なので、確実な反証を通じて彼の誤りを証明しなければならない責任は最初に問題を提起したキム教授にあるためだ。
イ・セヨン記者monad@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/388651.html 訳J.S