登録 : 2016.10.15 00:16 修正 : 2016.10.16 07:49

私たちが知らなかった済州海女のすべて

済州市朝天邑朝天里近海で漁をして、サザエ、アワビなどを獲る海女。2000年代初めの風景だ=海女博物館提供//ハンギョレ新聞社

 海女、酸素ボンベも持たずに素潜りで海に入る。一度の息で吸い込んだ酸素が、からだの中にみな溶けて流れる時まで、海底を探ってサザエ、アワビ、タコを引き上げる。それで海女は「孤独の精霊」だ。水面上で吐き出す呼吸で彼女たちは生きていることを感じる。

 海女は韓国各地にいる。だが、私たちの心の中の海女は、済州(チェジュ)にいる。韓国政府と済州道がユネスコ人類無形文化遺産登載を推進している海女も済州の海女だ。正確には「済州海女文化」だ。大きな島に居を定めて、荒々しい海で命がけで漁をして、堂々とした人生を受け継いできた済州の海女は、独特の共同体文化、両性平等の主体者だ。文化人類学者らは、済州の海女を「女性生態主義者」と呼ぶ。

技量の優れた上群の指示には従うが
具合が悪くて漁に出られなかった人の取り分を用意し
高齢者は専用「ハルマンパダン」で配慮
自分の限界を越えた欲望には常に警戒
貧困と戦い、日帝に抵抗

 済州市(チェジュシ)翰京面(ハンギョンミョン)に暮らす海女パク・ヤンスクさん(71)。「故郷はない」と話す。海女漁に出た母親は船で彼女を産んだ。3男5女の長女である彼女は、15歳で海女漁を始め弟妹を育てた。結婚後には栽培をする夫のゆとりがない収入の助けにと漁に通った。そんな風にして家族の生計を維持してきた。

 済州のことわざに「海女は赤ん坊を産んで3日すれば水に入る」というのがある。済州の海女の歴史は貧困との戦いそのものだった。

 家族の命の綱とも言える海女漁はいつ頃始まったのだろうか?「三国史記」、「高麗史」には「ソムナ(耽羅・済州)が夜明珠(夜でも光る珠)を進上した」という記録が残っている。学者はこれを根拠に、三国時代以前から海女がいたと見る。朝鮮時代、漁をする海女は潜女(チャムニョ)、潜手(チャムス)と呼ばれた。男の潜水夫もいた。彼らは浦作(ポジャク)と呼ばれた。

 生計と進上の責任がそっくり海女に転嫁されたのは朝鮮末期だ。朝鮮末期には、戦乱を避けて他地域に逃げたり海で死ぬ男たちが増え、済州の男の数は激減した。海女だけが漁をすることになったのもこの頃からだ。

 元々は海女は済州島の外で操業することはできなかった。ところが1876年に日本と結んだ江華島(カンファド)条約以後「出稼ぎ漁」(他の地域に行って収入を上げる漁)が可能になった。相手国の海で操業できるという条項が入れられたこの条約を根拠に、日本は済州の海に潜水士を投じた。日本が雇用した潜水士は、禁漁期間にも漁を止めず、海産物を総取りした。漁場は荒廃した。生計が不安定になった済州の海女は、島外に目を向けるほかはなかった。済州の海女は1895年に釜山で初めて出稼ぎ漁をした。その後、朝鮮半島の南側、日本、中国の大連、青島、ロシアのウラジオストックにまで進出した。最盛期には出稼ぎ漁をする海女が4千人余りに達した。1930年代には独島でも漁をした。

 日帝は1904年に露日戦争が勃発すると、火薬の原料であるカジメを確保するために済州の海女を絞り取った。海女の権益を守るために作られた海女組合は、日本と手を握って海産物の買い入れ価格を激しく値切り、すべての女性を強制的に組合に加入させ、組合費をむしり取った。

 海女たちは抵抗した。青年知識人が運営する夜学に通い、目方の量り方、読み方、ハングル、私たちの歴史などの民族教育を受けた一部の海女を中心に、生存権闘争が始まった。1932年1月、島の東側の下道里(ハドリ)、終達里(チョンダルリ)、細花里(セファリ)、始興里(シフンニ)、吾照里(オジョリ)、牛島(ウド)の海女1千人余が立ち上がった。「済州潜女抗争」の始まりだ。海女のキム・オンニョンらは、日本の横暴と収奪に対抗する海女会を組織した。人が多く集まる五日葬を利用して、ホミやピッチャン(アワビを獲る時に使う鎌やカギ)を手に、大規模示威を続けた。捕えられた海女はひどい拷問を受けた。だが、海女たちの抵抗は一層大きくなった。計238回、延べ1万7千人余りの海女が抗争に参加したという。海女の抗争は1930年代に済州で起きた抗日運動の中でも最大規模のものとして記録されている。

 海女の危機は1970年代中盤に再び訪れた。内地でワカメの養殖に成功し、命をかけて採取してきたワカメの価格は大幅に値崩れした。収入が減った海女は、ミカン畑の働き手になったり、観光業に転業した。この頃に普及したゴムの潜水服は、海女1人当りの作業時間を増やしたが、海女の減少は防げなかった。1965年に2万3081人(済州女性人口の21.2%)だった海女の数は、1975年には8402人に急減した。2013年には海女の数が4574人に減った。

 高齢化も深刻だ。2013年基準で50歳以上の海女は、海女全体の98%と調査された。60歳以上の海女の比率も81.5%に達する。

済州市朝天邑朝天里近海で漁をして、サザエ、アワビを獲る海女。2000年代初めの風景だ=海女博物館提供//ハンギョレ新聞社

ハルマンパダン、プルトク民主主義、ムルスム

 海女は鯨のような大きな海の生物は恐れない。海女たちが本当に恐れるのは、網、釣り糸、碇だ。からだが引っかかり抜け出すことができなければ命が危うくなる。如何に老練な海女でも、海草にからだが巻かれれば一人で抜け出すことはできない。水中メガネが割れようものなら、陸に出る道も分からなくなる。海女を助ける「スーパーマン」は、同僚の海女しかいない。それで海女は一人では漁をしない。互いに頼って、規律が厳しい共同体文化を作ったのは、このような現実が影響を及ぼした。

 海女にも階級がある。息の続く長さと潜水できる深さにより上群、中群、下群に分かれる。潜水時間は普通1分以内だが、上群は2分以上息を止めて15メートル以上も潜っていく。上群のうちでも人望があつく技量が傑出した海女は大上群と呼ばれる。中群は8~10メートル、下群は5~7メートルの深さの海が仕事場だ。海女志望生や潜水能力が低下した老いた海女は糞群と言われ水深5メートル未満で作業する。

 上群の指示はきわめて厳粛だ。60代の下群海女が年齢を盾に40代の上群海女の指示を無視することはない。許可無く1センチでも先に海に入れば罰を受ける。6~9月の禁漁期を守らずに海に入っても同じだ。収穫した海産物も上群の指示により分ける。

 能力中心の階級だが、この関係には平等と弱者に配慮する哲学が隠れている。収穫物を分ける時は、具合が悪くて漁に出られなかった海女の取り分も残す。年上の海女が息が続かなくなり体力が低下して糞群になれば、水深の浅い「ハルマンパダン」(ハルモンは済州島方言でハルモニ・おばあさんのこと、パダンは海底を指す)に行く。他の海女はそこへは入らない。ハルマンがお小遣でも稼げるようにしようという配慮だ。

済州市(チェジュシ)朝天邑(チョチョンウプ)朝天里(チョチョンリ)近海で漁をしてサザエやアワビを獲る海女。2000年代初めの風景だ=海女博物館提供//ハンギョレ新聞社

 海女の「プルトク民主主義」は、研究者にとって興味深い素材だ。プルトクはかつて海女たちが服を着替えたり、火を焚いて凍えたからだを暖めた所だ。海に入る前、海女はここで波や水温、採取する海産物、潜水領域などを議論して決めた。潜水技術を伝授する場所でもあり、1年に2~3回行う海の清掃「ケッタッキ」日もここで決めた。1985年以後、現代式の更衣室が設置され、プルトクは徐々になくなり、現在は20個所余りだけが残っている。

 海女が作業する時に海辺を歩けば、「ホーイ、ホーイ」という声を聞くことができる。海女が水面に浮び上がって、こらえていた息を吐きだす時に出す「息の音」、海と陸地を分ける境界の音だ。「ムルスム(水息)」とは自身の息の限界を越えた海の息という意味だ。海女が水息を飲めば、それはすなわち死を意味する。自分の息の限界を忘れて、目の前のアワビをもう一つ採取しようとする欲望に捕われれば、水息を飲むことになる。それで済州、牛島(ウド)の海女の一生を扱ったドキュメンタリー映画『ムルスム』には「欲を捨てなさい」という言葉がしばしば出てくる。母が米粒をぎゅうぎゅうと噛んで幼い子供の口に入れるように、老いた海女が後輩の海女に言う言葉だ。

 「畑仕事は一日中できる。日の出から日の入りまでは長い。海女は自由だ。以前は卑賎な仕事と思われたが、,今は高く評価する社会的雰囲気もあってうれしい」。翰林邑(ハンリムウプ)で会った海女イ・ジョンソンさん(66)は、「生まれ変わっても海女になりたい」と話した。

参考資料「2016済州海女文化アカデミー」、「済州海女生涯史調査報告書」、「ムルスム」、「済州海女」

助言:カン・グォンヨン済州海女博物館学芸士

済州/パク・ミヒャン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-10-13 12:22
http://www.hani.co.kr/arti/specialsection/esc_section/765471.html 訳J.S(3874字)

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