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中国 後漢書に高句麗 大武神王・慕本王 出て来ても 幽霊扱い

原文入力:2009-06-24午後01:25:36

イ・ドギル主流歴史学界を撃つ
⑦朱蒙・温祖・朴赫居世 三国始祖ではない?

後漢書‘慕本王, 中国内陸 侵略’記録
太祖王以前から強国であったことを立証
主流学界は“太祖王の時、事実上建国”
殖民史学に従い 溫祚・赫居世 存在も不信

←広開土大王碑文。キム・ブシク(金富軾)とイ・ギュボ(李奎報)はこの碑文の存在を知らなかったが、碑文に登場する始祖の話を自分たちの著書にのせた。<三国史記>初期記録が創作や中国記録を見て書き写したものではない証拠だ。

現行<国史教科書>は三国史記初期記録不信論に従い三国の建国始祖を脱落させた。代わりに高句麗は第6代太祖王(在位53~146)の時、事実上建国され、百済は第8代古爾王(234~286),新羅は第17代奈勿王(356~402)の時に建国されたという形で叙述している。それ以前の国王らは後代の操作であるとか部落単位の支配者に過ぎなかったと低めてみているが、これがいわゆる学界の定説だ。主流史学者らがこのように見る根拠は何だろうか?

先ず、高句麗太祖大王は中国記録に登場する。<三国志> <後漢書>などの中国史料には宮(太祖大王)が中国を攻撃する記事が何回も載っている。しかし中国記録に出てくるからと全て認めるわけでもない。高句麗3代大武神王(18~44)や5代慕本王(48~53)は中国史料に出てくるものの幽霊として扱われている。<後漢書>‘東夷列伝’高句麗條は「建武8年(西暦32)(高句麗大武神王が)使臣を送り朝貢すると(後漢)光武帝が王号を回復させてくれた」と伝えている。また<後漢書>‘光武帝本紀’25年(西暦49:慕本王2年)條は「遼東辺境の貊人が北平,漁陽,上谷,太原を侵略した」と記録している。<後漢書>‘東夷列伝’高句麗條はこの時の‘貊人’を‘句麗’と書き、高句麗が攻撃したと伝えている。<三国史記>は慕本王2年(49)條で「將帥を送り漢国の北平・漁陽,上谷,太原を襲撃した」と記録している。北平・漁陽,上谷は現在の北京付近で、太原は山西省タイウィアン(太原)市だ。慕本王の時に中国内陸奥深くまで進出したとすれば、高句麗が初期から強力な古代国家だったとの事実を認めなければならないので信じないということだ。自分たちが頭の中で作った歴史像と違った史料が出てくれば無視したり否認するのが主流史学界のいわゆる実証主義歴史観であるわけだ。

キム・ブシク,イ・ギュボ‘始祖’記録同一だ

太祖王以前の国王らが中国記録に登場するにも関わらず無視し、太祖王の時に建国されたと強弁した最初の人物が日帝植民史学者の津田左右吉だ。津田は‘三国史記 高句麗本紀 批判(三国史記高句麗紀の批判:1913)’で「(<三国史記> ‘高句麗本紀’の)宮(6代太祖大王)と遂成(7代次大王)が同じであることはまちがいなく支那(中国)の史籍に基づいて追加されたものだ…。歴史的事実としては宮以前の国王の世界は全く知ることができない」と書いた。太祖王以降だけを実存人物と認定することができるという意だ。中国史料に登場するそれ以前の国王らはなぜ認定できないかは説明できなかった。しかし、主流史学界は津田のこの文が教祖の教示にでもなっているかのように、現在も太祖王からを実在の人物と認定している。キム・ブシク(1075~1151)や彼より1世紀の後の人物であるイ・ギュボ(1168~1241)は揃って‘広開土大王碑文’を見ることはできなかった。しかしキム・ブシクの<三国史記>やイ・ギュボの‘東明王篇’は共に‘広開土大王碑文’の始祖事績について同一に記録している。イ・ギュボは今は伝わっていない<旧三国史>で見たと伝えている。<三国史記>‘高句麗本紀’の初期記録がキム・ブシクの創作でもなく中国の記録を書き写したものでもない、高句麗人たちが残した記録を見て作成したことを語ってくれる証拠だ。

←慶州蘿井遺跡. 朴赫居世が現れたという蘿井と推定される。

<国史教科書>は百済は‘3世紀中葉、古爾王の時 中央集権国家の土台を形成した’としてこの時に建国されたと書いている。温祖ではなく古爾王が百済の建国始祖だというこういう主張の根拠は何だろうか? 津田左右吉の弟子イ・ビョンドは1948年に刊行した<朝鮮史大観>で「温祖が果たして朱蒙の息子か違うかということは別問題として、彼が南来(南から来た)直後に建国したということはとうてい信じ難い。ただし、後日の建国の基礎となる部落を建設したということは考えることができる」と温祖建国説を否認した。彼は「私の研究した限りでは厳密な意味の百済の建国は温祖から第8代になる古爾王の時になされたと信じる」と叙述したが、これが主流史学界の定説となったのだ。彼もやはり温祖の建国を否認する根拠は提示できなかった。彼は<三国史記>に古爾王27年(260)六佐平および16官等制を完備したと出てくるという点と、中国の周書に‘百済の首都に始祖仇台墓があり、毎年四回ずつ祭事を行う’という一節の仇台を古爾王と見て古爾王が百済の建国者だと主張した。イ・ビョンドは「仇台の台字は原音が‘イ’音、すなわち仇台は‘クイ’と発音できると同時に、これと近似音である百済の古爾王を連想せずにはいられない」と言い、仇台の音がクイと似ているということを根拠に挙げた。仇台と古爾が同じ音ではないということはあえて説明するまでもないが、<三国史記>‘百済本紀’の250年以上の編年記録を否認する根拠としては幼稚と言わざるを得ない。イ・ビョンドは「古爾王以前の世系は追尊であること」として、それ以前の国王らを皆幽霊に変身させた。しかし<三国史記>が虚偽という日帝植民史学者らとその後えいらの主張とは違い<三国史記>の正確性は歳月が流れるほど継続して高まっている。1971年偶然に発見された忠南公州の百済武寧王陵誌石でもこれは如実に立証された。誌石は墓の主人公を‘寧東大將軍百済斯麻王’と伝えていたが、<三国史記>武寧王條は「王の諱は斯摩」と書かれていた。<三国史記>は武寧王が‘在位23年(523) 5月薨した’と記録したが、これは‘癸卯年(523) 5月7日崩した’という墓の誌石と正確に一致している。

←光州広域市,新昌洞 車遺物. 主流史学者らが経典のように見なす<三国志>‘魏志東夷伝’が馬韓の人々は‘牛や馬に乗るとは思わない’と書いたことが誤りであることを語っている。騎馬民族夫餘族の後えいである百済人らが馬に乗るとは思わないという発想自体が話にならない。

津田, 任那日本府説のために無理な主張

<国史教科書>は‘新羅は4世紀、奈勿王の時に洛東江東側の辰韓地域をほとんど占有し中央集権国家に発展し始めた’として新羅は最も遅れた4世紀後半に建国されたと叙述している。新羅が最も遅く建国されたと主張した最初の人物はやはり津田左右吉だ。彼は‘三国史記新羅本紀について’(1919)で「(新羅は)当時文化の中心地であった楽浪,帯方から最も遠い東南側隈の現在の慶州地域においてその文化の程度は低かったものと想像される」と想像の翼を広げた。漢四郡から遠く離れていたため文化程度が低かったという思いつきは奇抜だが彼がこのように主張した根本理由は新羅南部に古代版朝鮮総督府である任那日本府が存在しなければならなかったためだ。イ・ビョンドはこういう津田の説を大幅に受け入れ<朝鮮史大観>で「原始国家として遅々(とても遅れていること)たる歩みをしてきた新羅が付近の諸小国を併合し中央集権の政治に進展したのは第17代奈勿王の時から」と主張した。突然に<三国史記>‘新羅本紀’の400年以上にわたる記録は虚偽になってしまった。<国史教科書>はイ・ビョンドの主張により奈勿王の時に洛東江東側の辰韓を占領したと書いている。<三国史記>は3代儒理王(24~57)時から周辺国家征服に出て、12代沾解王(247~261)時には辰韓全領域を皆征服したと伝えているが見ないふりはできなかったのだ。イ・ビョンドや<国史教科書>は奈勿王を偉大な征服君主として描いているが、<三国史記> <三国遺事>‘広開土大王碑文’に記録された奈勿王の姿は征服君主とは距離が遠い。<三国史記>は奈勿王が守城君主だと書いており、<三国遺事>奈勿王と金(朴)提上條は息子美海と弟宝海を各々倭国と高句麗に人質として送り出して苦しむ弱気な君主の姿に描いている。‘広開土大王碑文’は奈勿王が自身を‘奴客’と呼び高句麗に軍事支援を要請したと書いている。主流史学界で新羅を事実上建国したと主張する征服君主,奈勿王は現存史料ではみすぼらしいことこの上ない国王として描かれていている。イ・ビョンドは奈勿王の時、麻立干という用語を使ったことを強力な君主の証拠だとしているが<三国史記>は奈勿‘尼師今’と記録している。また中国記録では奈勿王の名前を楼寒だと書いているが、イ・ビョンドはこれを麻立干の中国式表記だと主張した。楼を‘マル(床)’と読めば‘マリプ’(麻立)と同じように見ることができ、寒は干のように取音一文字だというものだ。しかし‘ルー’が‘床’であり‘マリプ’に連結するという発想は論理的飛躍に過ぎず、‘寒’の音は‘ハン’(han)であり、‘干’は‘ガン’(gan)であり文字も発音も全く違う。三国史記初期記録不信論に基づいて‘太祖王・古爾王・奈勿王’が三国の始祖だという主張は史料上の後押しが全くない無理押しに過ぎない。日帝殖民史学は三国史記初期記録を否認し、任那日本府を生かさなければならない植民統治上の必要があった。しかし、大韓民国は主流史学者らの学問権力維持目的の他に何の必要があって今日まで三国史記初期記録を否認するのだろうか? 果たして大韓民国の歴史は日帝から解放されたのか?
ハンガラム歴史文化研究所長

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/215/362096.html 訳:J.S