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キム・ヒョンミンの「応答せよ1990」(29) ポケベルの時代

登録:2014-09-13 21:13 修正:2014-09-14 17:50
58358282545119の暗号を解読すれば?
1980年代に医師などの専門職の間で利用され始めたポケベルは、1990年代に入ると需要が爆発的に拡大した。全国どこにいても手軽に呼び出しが可能になり、大学生がポケベルを腰などにかけるようになった。 リュ・ウジョン記者//ハンギョレ新聞社

新しい通信手段ではあったが
双方向ではなく一方的な呼び出し機能
純情可憐な大学生たちは時々
公衆電話に向かって無我夢中で走った
各種の数字・暗号開発の話に花が咲いた

画面に表示される7桁の番号に
胸を焦がして呼び出しを待ち
枕元にポケベルを置いて寝た
90年代の若者にとってその追憶は
幼い頃に食べたジャージャー麺のように

 私は大学生活および独身時期には叔母の家に居そうろうしていた。 殆ど10年にわたったので様々な出会いや思い出が多い。 その中で記念すべきことが復学した年の誕生日に起きた。 甥の誕生日にはワカメスープ(ミヨックッ)を欠かさず作ってくれた叔母だったが、その年はちょっと特別だった。 「もう復学もしたのだから」と言って小箱を差し出された。 包装されていなかったので、私は一目でその正体を見抜いて歓声をあげた。「わ~!ポケベルだ!」その当時、ポケベル(無線呼出器・(韓国名:ピッピ))は格別なデザインらしきものもない真っ黒なマッチ箱のような機械だったが、私はまるで外界文明の秘器でも伝授されたかのように、手にしてもどうすれば良いのか分からなかった。

 ポケベルが初めて登場したのは1982年頃だった。 用途は一種の‘鎖’だった。 1983年5月30日付<東亜日報>は‘中共’(中国)民航機の非常着陸事態以後、週末など連絡がつかない日の非常連絡用として内務部高位食級幹部にポケベルを支給したが、幹部たちは「こういうものを腰につけることになり、子供たちに対して恥ずかしく思った」と吐露したと報じている。

永遠に忘れられない友達のその一言

 医師や軍人、営業マン、記者などの特殊な職業で業務上活用されたポケベルは、1990年代に入ると突然需要が大幅に拡大した。 費用負担も少なくなり、地域番号を押すという手間も減って全国どこにいても手軽に呼び出し可能になり利便性が高まった。 大学生たちもその機械を腰に下げたりし始め、連絡ポストの機能を果たしていた大学街のカフェでも「○○さん、電話ですよ」ではなく「1234番を呼び出された方!」と叫ぶ頻度が増えてきた。 どうしても欲しいと誰かに頼める境遇ではなく、そうかと言って自分の金で買おうとまでは思わなかった。それでも内心では欲しいと思っていたところに、叔母の好意のおかげで、私は同期たちの中で一番最初にポケベルを持つ‘アーリー・アダプター’になった。 翌日、私はあたかもなりたてのガンマンが拳銃を身に着けたようなときめきで、ポケベルを腰にぶら下げてさっそうと登校した。

 偉そうに友達にポケベルの番号を下賜している間、一人が挑発的に私の気持ちを逆撫でた。「お前みたいなガールフレンドもいない野郎がポケベル持ってどうするんだ。お前のポケベルは俺たちの私書箱だ!」 「ポケベルは恋をするしか使わないと思っているのか」と言って努めて平静を装おったが、実のところ彼の言葉は不吉なほどに正確な予言に昇華されることになる。 図書館でちょっと勉強しようとすれば、ポケベルは勝手に鳴り響き、「飲み屋にいるから来い!」と勉強の意欲を殺がれ、そうでなくても番号が表示されるのでそこに電話をかければ「○○がそこで勉強しているだろう? ちょっと連絡しろと伝えて」と言って、自分のガールフレンドに会いたい礼儀知らずのカップルが主に私のポケベルを利用したのだ。

1997年に普及台数1500万台を突破したポケベルと最も身近だった公衆電話の全盛時代も1990年代だった。 携帯電話がなかった時代、ポケベルが鳴れば公衆電話ブースに駆けつけたからだ。 カン・ジェフン先任記者//ハンギョレ新聞社

 そんなある日、漢江(ハンガン)沿いで酒を飲んでいた。 テーブルを囲んで座って、イカを肴にビールを飲んでいると私のポケベルが鳴った。 悪友の家の番号だった。 ひとまずは無視を決め込んだ。 電話をしようにも公衆電話までは1km以上あった。 差しつ差されつ飲んでいる間、私のポケベルは3分間隔で鳴り続けた。 そのうち‘8282’(パルリパルリ 早く)が電話番号の後に続けて表示されるようになった。 一緒にいた友人が「何か急用があるんじゃないか?」と不安気に見つめ、私も急に怖くなった。電話番号の主人は忠清道舒川(ソチョン)の生まれで、忠清道出身らしく‘キリギリス’というあだ名通り鈍くさくて短気な友達連中を呆れさせてばかりいた奴だった。 ところがそいつがこれほど急迫したように私を呼び出すとは? ひょっとして1年の時の学科の同期生のように誰かが寝ていて急死でもしたのではないか、交通事故にでもあったとか、あるいはひょっとして何かの公安事件に友達が関わってしょっぴかれたのではないか、ありとあらゆる想像が起き始めた。

 またポケベルが不吉に鳴った。 今度は‘8282’の後に‘1818’と出ていた。 その瞬間、想像がとどまることを知らなくなった。 これは本当に何かが起きたに違いない。 これだけ私がポケベルを無視していれば、電話ができない所にいると分かりそうなものなのに、こうまで焦ってポケベルを鳴らしまくるとは、「畜生、電話しろってんが、ヒョンミン!」と泣きそうに電話のボタンを押すそいつの顔が見えるようで、今連絡しなければ死ぬまで後悔するような予感が頭の中を埋め尽くした。

 「公衆電話どこにあるだろう?」その場から全力で走っても10分はかかるところだった。蒸し暑い夏の熱帯夜の中を私は狂ったように走った。 汗が噴水のように出てきて全身を濡らし、死にそうに息が切れて脳天をかきむしったが私は一度も休まなかった。 やっと公衆電話のブースを見つけて受話器を取った瞬間、私は激烈な感歎詞を吐きだしてしまった。「こんちくしょうめ!」公衆電話は全てがカード式電話で、私の財布には公衆電話カードが入っていなかったのだ。 誰かそばにいれば哀願してでもカードを借りるけれども、深夜の12時頃に河川敷周辺の住宅街の公衆電話ブースは人っ子一人いなかった。 私は泣きそうになって今走ってきた道を走って戻った。 その瞬間にもポケベルはずっと鳴り続けていた。 「本当に偉いことが起きたんだろう!」追い詰められた思いで私はフォレスト・ガンプのように走った。

 「テレホンカード! テレホンカード出せ!」目撃者の弁によれば私の目は血走っていたという。 いったい何があったのかと尋ねる友人に「緊急状況だ!」と一喝し、(私は記憶にないのだが)カードを奪うと再び闇の中に走って消えたそうだ。 ほとんど脱力状態になってテレホンカードを入れて、大急ぎでボタンを押して信号音を待った時間は、大学入試学力考査の合格者照会を焦って待っていた時と同じように長かった。 ようやく友人が受話器の向こうに現れた瞬間、私はほとんどないていたようだった。 「何があったんだ? どうしたんだ?」やはり非常事態であることは明らかだった。「どうしてポケベルを受けなかったんだ!」そいつも激しく怒鳴り返してきた。「申し訳ない、申し訳ない、で、どうしたんだ?」あらためて切実に尋ねた後に私の耳を襲った言葉を私は永遠に忘れられないだろう。 その言葉の一言一言、助詞と語尾まで記憶して、その語調すら消えることはない。 彼の返事はこうだった。「あの時、○○の連絡先(他の大学の女子学生だった)お前書いていただろ? その連絡先、ちょっと教えてくれ。」

南派スパイが乱数表を解読するように解いた数字列

 自信を持って言えるが、私がもし女だったらその場に座り込んで泣いただろう。 地面がすべてスポンジになったようにふわふわとして、脚がぐらつき、頭はポカンと空洞になり、何の言葉も出てこなかった。 その時、私がありったけの悪口を浴びせまくってそいつに報復もできずに黙って電話を切ってしまったことが、20年経った今でも恨としてしこっているが、その時私はポケベルをそうっと草むらに投げ捨てさえした。(強く投げ付けることはできなかった)新しい通信手段であること確かだが、双方向通信ではなく一方的な呼び出しを特徴としていて、音声メッセージのような補助手段も出てくる前(ボイスメール サービスは1992年12月に試験的に実施された)のポケベルは、そんな風に純情可憐な大学生をパニックに追い込んでいたのだ。

 それでも人々はその一方通行の通信手段を多様な方式で利用した。 最も代表的なものが、私の友人が使った‘8282’のような数字音の吏読(イドゥ)式(?) 使用だった。 8282は‘パルリパルリ(早く早く)’であり、番号の後に1004を付ければ‘あなたの天使(チョンサ)’になったし、1010235を付ければ‘熱烈思慕’に化けた。 思い出せる幾つかだけを挙げてみても、人々は天才的(?)に数字暗号を開発して使った。 図書館で勉学に励みながらも、ポケベルに友人の番号と一緒に002が付いていれば、尻が持ち上がった。 ‘テンテンイ(エスケープ)’しようという意味だった。 20000は「私はもう切り上げて行く」という信号であり、2468は拍手の擬音(パチパチパチパチ)だった。 恋する人々にとって、この暗号の世界は一層無尽蔵な創造領域になった。 友人のポケベルに示された‘58358282545119’という乱数表的暗号は、しばらく友達の間で話題になった。 その意味は「兄さん(58 オッパ)愛してます(35-思慕)早く来て(8254)私を(5-吾)助けて(119)」だった。 恋人のいない不遇な青年たちは、その話にもならない説明を聞いて「狂ってる」とヤジを浴びせたが、内心はいつも飲み屋の電話番号ばかりが表示される自分のポケベルが恨めしかった。 そして彼らはまた、飲み屋で集まって酒を酌み交わした。 だからポケベルに、「兄さん愛してます」などが表示される筈もなかった。

 ネズミの穴にも陽光が差す日がきた(待てば海路の日和あり)。 ついに私も恋愛を始めたのだ。 恋愛を始めるやいなや、私が渡した最初のプレゼントがポケベルだった。 さぞや、それまでのわだかまりが大きかったのだろう。 今や私も486(‘愛している’という意. サランヘ(愛してます)の‘サ’は4画、‘ラン’は8画、‘ヘ’は6画であることから始まった暗号)を乱発でき、10023535を自分の番号の後に堂々と付けられるようになったんだなーと思ったのだ。 ところで今は妻になっている当時のガールフレンドは、もう少し斬新な(?)ものを望んだ。 それで出てきたのが、決して斬新ではない乱数表方式(?)だった。 ‘K’(キオク)は1、‘N’(ニウン)は2、そして母音の‘あ’は1、‘や’は2のように子音と母音に数字を付与して、それを組み合わせてメッセージを送ったのだ。 この方式を適用して“71 410 8810”と打てば‘サランヘ(愛してる)’になる。 当時の私のメッセージには‘71 410 8810’が頻繁に付いていたし、私もまた時々はその数字を打って送った。 時には意味不明な数字の組合わせを受け取り、まるで南派スパイが暗号を解読するように唸りながら数字を解読しなければならなかった。 “85 294 8860 152 8810”を“今日は疲れた”と解読するのがどれほど大変だったかということだ。 ところで、愛の力は偉大だった。こんな作業を数ヶ月した結果、数字を見ただけで自動翻訳できるシステムが頭の中にできたという事実。

 先日、映画<建築学概論>を見て、ふと昔を思い出して妻にかつての私たちの‘通信システム’について説明したところ、妻は記憶喪失に近い反応を示した。 「いや、そんなおかしなことを何故したのかって?」その通り。 私たちがなぜそうしたのだろうか。 映画<建築学概論>の主役を演じたスジがあるインタービューで「今でも(映画に登場する)ポケベルの使用法がまったく分からない」と吐露していたが、1994年生まれの俳優スジや、同じ年頃の人々がボタン一つで全世界の誰とでもすぐに連結され、世界中のすべてのネットワークに接続可能なスマートフォンが日常になった時代に、ポケベル使用当時の情緒を理解することは容易でないだろう。 まして、その時代を生きてきた人々でさえ、私の妻のようにその情緒を全く忘れえいるのが当たり前になった今では。

1995年 販促用テレホンカードの発行量だけで1200万枚

 1997年に何と普及台数1500万台を突破したポケベルと、その最も身近なパートナーだった公衆電話の全盛時代も1990年代だった。 1991年度にテレホンカードの発行量はすでに5000万枚を越え、1995年の報道によれば各企業が販促用に配るために発行したテレホンカードだけでも1200万枚に達した。 人々で混み合う地下鉄駅や市内各所の公衆電話ブースにはポケベルを手に握って足をばたばたさせながらテレホンカードを持った人々が長蛇の列を作った。 そうかと思えば、通話がちょっと長くなれば何度も「申し訳ありません」と頭を下げる人や、厚かましい人の場合には列んでいる人々と口論が起きることも珍しくなかった。 そんな風にして、ようやくつながった通話がテレホンカードの残金不足で切れてしまったり、話もできない状態でお金だけが減っていけば、どれほど癇癪が破裂しただろうか。 『ハンギョレ新聞』 1995年11月1日付にはポケベルと関連して腹を立てた使用者の思いを読み取れる読者投稿が載っている。

 「テレホンカードを使っていると40ウォンだけ残るときがある。 ところでこれを使って電話をすれば、つながってポケベルに信号音が出た後、通話できる。 ところがこのカードでポケットベルをならす場合、送信者が1番ボタン(番号呼び出し、2番はボイスメール)を押すものと錯覚して1番を押してしまう。そうすると何も連絡できずに40ウォンをただ失う計算になる… 40ウォン、何でもないような金額ながらチリも積もれば山となる!」

 その頃だっただろう。 ちょうど入社して助演出の仕事で考える余裕もなかった頃、かろうじて参加できた集いだった。 汝矣島(ヨイド)のベンチで三次会の缶ビールを飲みながら笑っていると、ある友人がポケベルがきたとし言って公衆電話を探しに行った。 すぐに戻ってくると思ったそいつはしばらく経ってから戻ってきた。 恋人でもできたかと「ずいぶん長い電話だったな」と文句を言うと、そいつはしばらくしてからこのように話したことを思い出す。「電話ブースにいた奴が恋人と電話をしていたんだ。今日デートして、何か失敗したらしい。『違う違う、僕の気持ちは知ってるでしょう』と言いながら大声を出したりたり、拝んだり、挙げ句の果てには泣き出して。 ポケベルの番号が家ではないようだった。 今から行くから、この番号はどこかと尋ねるとテレホンカードの残金がなくなったんだ。すると奴は私にテレホンカードを貸してくれと言って。 1分だけ使わせてくれと。 貸さないわけにも行かなくてね。自分だってそのような状況にならないとも限らないからね。」

キム・ヒョンミン放送ディレクター

 ポケベルに表示された七桁の電話番号に胸をときめかせ、ポケベル呼び出しに応えるためにテレホンカードを振りかざし公衆電話ブースを探して走って行った。カチャカチャと減っていくカード残高に目をむいて、ボイスメールで愛の告白をした。ポケベルのベル音や振動音を切なく待ちながら、寝る時も枕元にポケベルを置いて寝た90年代のそんな青春に、ポケベルの追憶は数十年が過ぎてもも決して消えることはない。 それどころかさらに鮮明になる、幼かりし時、運動会が終わって食べたジャージャー麺のような感じで残っている。その時期、私も青春だった。

キム・ヒョンミン放送ディレクター

https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/654936.html 韓国語原文入力:2014/09/12 22:03
訳J.S(6795字)