原文入力:2009-05-15午後01:45:10
[ハンギョレ創刊21周年特集]
イ・ドギル 主流歴史学界を撃つ
日 主流歴史学界を撃つ/①植民史観と老論史観
私たちの時代の ‘問題的歴史学者’ であるイ・ドギル ハンガラム歴史文化研究所長が主流歴史学界に挑発的な挑戦状を投じる。
イ所長は現在歴史学界の主流史観が植民史観と老論史観を母胎としていると主張する。学界で定説や通説として固まっている既存理論体系をひっくり返すという。ハンギョレは今後10余回にかけて水曜日紙面にイ所長の文を載せる予定だ。
ハンギョレがイ所長の主張にうなずいたり同調するということではない。だがイ所長の発言が火種となり、私たちの歴史の真実に対する論争の火がごうごうと燃え上がることを期待する。併せて歴史教科書を閉じるとともに忘れられた読者のかすかな記憶を引き出し歴史が私たちの現実に住んでいることを共に分かち合いたいと思う。
イ所長の主張に対する反論はいつでも歓迎し紙面を提供するのを惜しまない予定だ。
←中国社会科学院から公式刊行された秦漢時代歴史地図。万里の長城を韓半島に深々と引き込んでいる。 (※イメージをクリックすれば大きく見ることができます)
津田左右吉植民史観,冷戦時代を経て伝説に
老論史観加えて歴史操作,抗日武装闘争史抹殺
学問権力 歴史解釈権 独占…東アジア平和を遮る
中国は東北工程で満州はもちろん韓半島北部までを中国史の領土だったと主張している。北韓有事の際に軍事介入できる歴史的根拠を用意したのだ。その核心論拠は漢が古朝鮮を滅亡させ設置したという漢四郡にある。漢四郡の中心地である楽浪郡が古朝鮮の首都であった平壌地域にあり残り三郡が漢江の北側にあったので漢江北側が古代中国の植民地だという主張だ。こういう東北工程に対抗するために設置した機関が高句麗研究財団とそれを継承した東北アジア歴史財団だ。ところで東北アジア歴史財団の現行ホームページは ‘正しい歴史’ という項目で「紀元前3~2世紀、準王代の古朝鮮と衛満朝鮮は平壌を首都としており…」と書いている。古朝鮮の王城である平壌に楽浪郡を設置したという中国東北工程の内容と一致する。高句麗研究財団も一時、楽浪郡の位置を平壌だと表わした歴史地図を上げてネチズンの抗議を受けて畳んだことがあった。東北工程に対応しろとして設置した国家研究機関がむしろ東北工程論理に同調する異常現象が進行中である。
‘楽浪郡=平壌地域説’ が日帝時代の京城が現在のソウルだったことのように確固不動な事実ならばそうかもしれない。そのような場合、私たちは ‘嘗て漢江以北は中国史の領土だったが今はちがう’ という守勢的防御に出るべきだろう。しかし、すでに1963年に北韓のリ・ジリンは<古朝鮮研究>で漢四郡は韓半島にはなかったという事実を論証した。南韓でもムン・ジョンチャン先生が1969年に刊行した<古朝鮮史研究>を通じて、そしてユン・ネヒョン教授も<韓国古代史新論>(1986)を通じて、筆者らも<古朝鮮は大陸の支配者であった>(2006)等の著書を通じて漢四郡が韓半島内にはなかったと論証した。にも関わらず国民の税金で運営される国家研究機関らは東北工程に対抗するこういう理論を完全に握りつぶしたまま、漢四郡が韓半島内にあったと言っている。高句麗研究財団と東北アジア歴史財団が高句麗問題に対してはトーンを高めながらも、古朝鮮問題に対しては事実上沈黙を決め込んでいる内心もここにある。これは現在の史学界主流の地形に根本的で構造的な問題があることを意味する。
東北工程にむしろ同調する国家研究機関
←津田左右吉. 満州鉄道株式会社と朝鮮史編集会出身で<三国史記>初期記録不信論などの殖民史学理論を作り出した人物だ。
韓国は大学内の教壇史学者らと大学外側の在野史学者らの間に歴史認識を巡って集団的葛藤を経ている唯一の国だ。在野史学者らは教壇史学者らを日帝殖民史学の後裔と批判してきた。これらの主張に無理な部分があるのも事実だ。しかし、韓国史学界は解放以来、今日まで朝鮮史編集会が作った韓国史認識体系に対する総合的検討と批判をせず、こうした批判を自ら招来した。批判どころか朝鮮史編集会の主要論理がそのまま韓国史の定説で通っていることが現実だ。
在野史学者らは日帝殖民史学の頂点に国史学界の泰斗イ・ビョンド博士がいると主張した。しかし殖民史学の教祖はイ・ビョンド博士ではない。真の教祖はイ・ビョンドの早稲田大学留学時期の師匠であり満鉄と朝鮮史編集会出身の津田左右吉だ。現在韓国古代史学界で定説と認定しているイ・ビョンドの理論は津田らの理論をそのまま継承したり若干の修正を加えたものに過ぎない。津田の韓国古代史観は簡単だ。南満洲鉄道会社の委嘱を受けて書いた<朝鮮歴史地理>などの著書で津田は韓半島北部には楽浪郡をはじめとする漢四郡があり、漢江以南には計78ヶの小国らがうようよしていたと叙述した。そして韓半島南部に古代版朝鮮総督府である任那日本府があったということだ。ところで津田はこういう主張の理論的根拠を提示しなかった。これを事実と前提にして、次の論理を展開する非学問的態度を取ったのだ。韓半島北部の強大な漢四郡がなぜ78ヶ小国でうようよする肥沃な三南地域に進出しなかったかは説明しなかった。いや説明できなかった。それでこそ任那日本府が成立することができた。
問題は<三国史記>が漢江南に早くから新羅と百済という強力な古代国家が存在したと説明しているという点だった。<三国史記>記録のとおりならば、任那日本府は存在できなかった。そこで津田は<三国史記>初期記録が操作されたといういわゆる三国史記初期記録不信論を創案し遂げた。一人で<三国史記>初期記録不信論を主張しながらも「<三国史記>上代部分を歴史的事実の記載とは認定しにくいということは東アジアの歴史を研究する現代の学者らの間で異論がない」(<三国史記>の新羅王本紀に対して,1919)であたかも多くの学者の支持を受けているように強弁した。後日イ・ビョンドは任那日本府説は否認しながらも津田の<三国史記>不信論は若干の修正を加えて受け入れたし、その弟子らによって現在定説となった。
←イ・ビョンド博士。韓国史学界の泰斗と認められているが、彼の理論の一定部分は日帝殖民史学の影響から抜け出せなかったという批判も共に提起されている。
筆者はイ・ビョンド博士ばかりでなく、その弟子たちがさらに大きな問題と考えている。イ・ビョンドが津田の古代史認識体系に家門搪塞だった老論史観を加味して作った韓国史認識体系を弟子らが韓国史の主流学説であり定説として作ったためだ。朝鮮史編集会前歴のために解放空間で震檀學會の除名対象になったりもしたイ・ビョンドは冷戦体制が樹立されペク・ナムウンのような社会経済史学系列の史学者らが北に行きチョン・インボのような民族主義史学者などが韓国戦争渦中に北に拉致され、韓国歴史学界の泰斗の席を占めることになった。解放後、日帝殖民史学に対する総合的検討と批判過程を経て新しい韓国史認識体系を樹立するのは左右を越えた時代的課題だったが、イ・ビョンドとその弟子らはいわゆる実証史学という美名の下朝鮮史編集会で作った韓国史認識体系の基本はそのままにして若干の修正を経て歴史学界の定説にした。
他の理論を提起すれば在野史学者と追い立てて
ここに老論史観を加味して,栗谷李珥の十萬養兵説を操作し遂げ、西人(老論)が南人を追い出し政権を取ったのを西人が追い出され君子が進出したという意の大黜陟と表現し‘英・正祖時代’という名称で老論と対立した正祖を英祖の付属人物のように扱った。そして「歴史学者は現代史を研究してはいけない」という奇想天外な論理で独立軍の抗日武装闘争史を抹殺させた。
さらに大きな問題はこういう認識体系を唯一の定説として作ったところにある。事実日本人らの下で歴史を研究したイ・ビョンドの認識体系は限界が明確にならざるをえなかった。後輩の学者らはこういう限界を認識し植民史観とイ・ビョンド史観に対する批判的検討を通じて継承することと断絶することとを区分しなければならなかったのに無批判的に受け入れ定説とした。すべての理論は相対的真実に過ぎないという点を無視したまま、これを宗教的ドグマのように作った。異論を提起する学者は在野にあろうが教壇にあろうが在野史学者として追い立て追放し、理論の全体論理中一つや二つの問題を拡大し全体を否定する方式で唯一無二な学問権力を構築し歴史解釈権を独占した。筆者は21世紀世界化時代を生きる私たちの2世たちがこれ以上、植民史観と老論史観で綴られた歴史観で教育を受けてはいけないと考える。生きている日帝植民史観は現在東北アジアの和解と平和体制構築に大きい障害となっている。植民史観に対する東アジアの真の反省が和解と平和体制構築の土台になるだろう。こういう目的を置いて見た連載は大きく四部分から成り立つだろう。 ‘①漢四郡は韓半島内に存在したのか? ②<三国史記>初期記録不信論は妥当なのか? ③老論史観はどのように朝鮮末期史をわい曲させたのか? ④独立軍の抗日武装闘争は存在しなかったのか?’もちろんすべての主題に対する反論を歓迎する。
←イ・ドギル ハンガラム歴史文化研究所長.
イ・ドギル 崇実大史学科,同大学院を卒業し‘東北抗日軍研究’で博士学位を受けた。1997年<党派争いに見る朝鮮歴史>を筆頭に韓国史の争点に正面から挑戦する大衆歴史書物を執筆してきた。<私たちの歴史のなぞ1~3> <ソン・シヨルと彼らの国> <朝鮮王毒殺事件> <チョン・ヤギョンとその兄弟たち>などが代表作だ。
原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/354663.html 訳J.S