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[ハンギョレ21 2009.05.01第758号]ペダリ(船橋),人に馴染む家が集まり暮らす所

[人と社会]仁川醸造場・アイスケーキ屋など近代名物ら並び立ち…
 6車線道路 貫通計画に抵抗する文化共同体ができる

■イム・ジュファン,リュ・ウジョン

道は人の足についてできる。仁川,ペダリの村の曲がりくねった路地も人が集まって誕生した。京仁線電車が過ぎるペダリ鉄橋に近い仁川,東区,金昌洞・松峴洞・昌榮洞一帯を指す。19世紀末、ペダリには水門水路に繋がる小川があり、上げ潮の時には海水が入ってきて小さい船を着けることができたという。人々の暮らしに余裕のなかった1950~60年代、ペダリ空地には流浪劇団や流しの薬売りなどが頻繁に訪れてきて見ものを提供し、古本屋街は教科書と参考書を売り買いする学生たちで大変なにぎわいを見せていた。仁川っ子ならば誰でも幼い時期のペダリで嗅いだ臭いを記憶しているだろう。そこには海風に乗った生臭い臭い,古くなった紙が漂わせる香ばしいにおい,路地でいつも出会う飯を炊き洗濯をする臭いが混じり合っている。

←ペダリ路地のある軒下で子供たちが雨を避けている。建物壁面にペダリ貫通産業道路開通に反対する芸術家たちが描き残した壁画が見える。

路地追い出して娯楽施設造成計画

ペダリ一帯は気だるい近代化の肖像を大切に保管した空間でもある。済物浦を強制的に開港させた日本が、海岸の南村地域(今日の中区)一帯を開発しそこから追い出された朝鮮人たちは水道局山一帯の松峴洞・松林洞・万石洞とペダリ一帯に集まった。1920~30年代には世間に広く知られた歌のようにマッチ工場が密集して、女職工たちは一日13時間に1万ヶのマッチ棒を作り60銭を手にすることができた。1960~70年代には全国の酒党たちを魅了したと言われる仁川醸造場と仁川市民たちに人気が高かった昌榮堂アイスケーキ屋のような名物が古本屋と共にペダリの最古参の役割をした。

ペダリが騒々しくなったのは開発狂風が本格化した2006年頃からだ。仁川市はペダリの村を貫く幅50mの6車線道路建設をゴリ押ししている。松島経済自由地域とソウルをつなぐためと言うが、ペダリ町内は道路のために半分に引き裂かれることになった。これに加えて中区と東区一帯では現在、東仁川北広場造成事業と仁川駅・東仁川駅周辺再整備事業をはじめとする各種再開発工事を推進中だ。古本屋街をはじめとするペダリの路地と住居を追い出した後には駐車場,各種娯楽施設,住商複合アパートなどを作るというものだ。これに対抗して住民たちは道路建設に反対する対策委員会を設けた。

←ペダリ歴史文化地図. ペダリを守る仁川市民会提供(※イメージをクリックすれば大きく見ることができます)

ペダリの人々はなぜ道路建設と再開発に反旗を翻したのだろうか?去る2007年に旧仁川醸造場に引っ越してきた美術代案空間 ‘スペース ビーム’ のミン・ウンギ(44)代表は「ペダリは私たちが保存しなければならない ‘見えない力と魅力’ を抱いている」と語る。ミン代表はその力と魅力の源泉として「建築物が一律的に建てられたのではなく、それこそ状況に合わせて几帳面に建てられていて、人は路地に植木鉢と寝床を持ち出して自分の空間として活用している」という点を挙げた。黙って覗いて見るとミン代表が借りて暮らしている旧醸造場建物も事情により建て増しを繰り返した痕跡を残している。植木鉢や野菜畑も道行く人の目を惹きつける。家の前や町内の空地に出した植木鉢には花木の代わりにカボチャやニラなどが美味しそうに育っている。

入口と駅前の塀に壁画を

ペダリの最大名物は古本屋だ。古本屋に出入りする人々は貫通道路が古本屋街の息の根まで止めると憂慮する。一時40軒余りに達したという古本屋はもう5,6軒に減ったが、中古参考書と古ぼけた小説を求める人々が少なくない。娘に与える絵本を選ぶのにペダリに立ち寄ったというチョ・ミジャ(40)氏は「フランスに住んでいて、韓国には1年に一回ずつ立ち寄るけど古本屋がまだ残っているというのでまっすぐ駆け付けた」と話した。古本屋 ‘アベル書店’ を経営するクァク・ヒョンスク(59)代表は「古本屋景気が以前のようではないけれど路地の流動人口は相当多い方」として「昔の思い出のために訪ねてくる中年たちが少なくない」と耳打ちした。

←京仁電車の線路の向こう側から眺めたペダリ村の全景.

ペダリの人々は昔の建築物に残っている近代の息遣いを保存するためにも貫通道路を阻止しなければならないと話す。ペダリ一帯には1920年代当時、全国的名声を得た邵城酒(ソソンジュ 焼酎の一種)を製造していた旧仁川醸造場建物、旧マッチ工場、工芸通り、タルトンネ(月の村)博物館などが集まっている。1897年韓国最初の鉄道工事が始まった地点(旧 牛角駅)をはじめ、仁川の初めての私立学校である永化学校(1892年開校),開校100周年を越した昌榮小学校,1890年代に建てられたアーレン別荘跡,米国監理会韓国女宣教師合宿所などの歴史建築物も自慢の種だ。

ペダリが開発狂風に本来の姿を失うことになる危機といううわさが広がるや、文化芸術界の人々が集まり始めた。美術代案空間 ‘スペース ビーム’ は2007年仁川の古い町内10ヶ所を対象に昔の名残を作品の中に残しておくために進めた ‘都市遊牧_2’ プロジェクトを遂行するためにペダリに立ち寄ったが結局居座ることになった。嘗て邵城酒で名を知られた仁川醸造場の場所を賃借し展示空間と作業室に使っている。また2001年から仁川,松林洞・ペダリなどで地域文化活動を繰り広げた ‘パフォーマンス半地下’ は2007年7月から12月まで ‘記憶と新しさの風景’ という公共美術プロジェクトを進行した。古びた路地裏スーパーの看板を変えたり、町内の風景を入れた壁画を作ったりもする作業だった。古本屋専門家チェ・ジョンギュ氏は写真集図書館 ‘ハムケサルギ(共生)2’ を開館し、仁川作家会議事務室もこちらに移転してきた。

←詩集展示館 兼 文化広間 ‘ペダリ,詩がある小さな本の道’ を運営するクァク・ヒョンスク氏の ‘アベル書店’ 内部の様子。 本を選ぶ学生たちの表情が真剣だ。

芸術家たちは先ず町内の風景を変える役割を受け持って立ち上がった。パフォーマンス半地下はペダリ線路の右側入口にあるインハ資源の壁にグラフィティ壁画を描き込んだ。リヤカーに満載の廃紙を載せて行く男性と仕事の手を休めしばし座ってタバコを吸いながら路地を眺める男性の絵だ。トウォン駅の前の塀には村の歴史と風景、そして人々の暮らしを描いた壁画<ここ牛角里の風景>を描いた。身ごもった女性と本屋の女主人、登校する女子学生などの姿が壁画に描かれた。

ウガク路(牛角峠)下のペダリにある ‘ケコマッコリ’の看板を替えて主人夫婦の昔の写真を集めて小さな展示空間にすることもした。ケコマッコリのメニューには「月:月例的に飲んで…木:モク(喉)がつまられるように飲んで…日:早く飲んで明日のために早く寝る」という句の下に「死ぬことを覚悟すればできないことは何もない」という確約が記されている。旧仁川醸造場に場所を定めたスペース ビームは2階を住民たちのための空間として常時提供するために、毎週土曜日には映画を上映し‘ペダリ ソング’ と律動を作りだし、訪問客に ‘伝授’ している。毎朝、仁川市庁を訪ねて行き、道路建設と再開発に反対する1人示威を行うクァク・ヒョンスク アベル書店代表も力を添えた。彼が用意した詩集展示館 兼 文化広間 ‘ペダリ,詩がある小さな本の道’ では毎月最終土曜日に詩の朗誦会と童話朗唱会などを行っている。

←古本屋小路に共に宿り共に生きる額縁店の様子。ペダリ一帯では数十年間一ヶ所を守る庶民型店舗の姿を容易く発見できる。

ペダリを守るための市民社会の連帯も本格化した。去る4月10日ペダリ文化宣言推進委員会は仁川,昌榮小学校で ‘ペダリ文化宣言 宣言式’ を開いた。パク・サンムン‘ペダリを守る仁川市民の会’ 常任代表をはじめ、チェ・ウォンシク仁荷大教授、チ・ヨンテク セオル文化財団理事長、キム・ユンシク仁川文人協会長などの発起人と地域住民など50人余りが参加した席だった。これらは宣言文で「ペダリは仁川の近代文化を代表する名所であると同時に、昔の市街地の姿をそのままに保存しているなど仁川生活文化史の代表地域」として「ペダリ貫通産業道路建設反対および庶民生活の基盤保存を要求する署名運動に立ち上がる」と明らかにした。

ズボンの裾上げとコンピュータ修理を物々交換しよう

ペダリの人々は去る年末、助け合い方式の地域共同体運動である ‘ティアッ’ をスタートさせもした。兄弟姉妹の友愛を意味する純粋韓国語に名前を借りたティアッは地域住民たちが各自自分の能力や才能または持っている物を活用して助け合う生活文化共同体を作ろうという運動だ。例えばズボンの裾上げ技術とコンピュータ修理技術を交換する方式だ。ティアッ スタートを主導したミン・ウンギ スペース ビーム代表は「ペダリで広がる小さな動きは巨大資本の利益のために原住民を犠牲にする現在の再開発事業にブレーキをかけ、望ましい都市空間を作り出す試金石になるだろう」と話した。

2年間 中断された‘ペダリ産業道路開設工事’

市は今年下半期に再開予定

‘ペダリ産業道路建設工事’を巡る論難がふくらみ2年余りが過ぎたが解決の糸口は見られない。仁川市総合建設本部は去る1998年から2011年末の開通を目標に中区,新興洞の三益アパート~東区金昌洞ペダリ~水道局山~東国製鋼を結ぶ産業道路建設を進めてきた。6~8車線2.5km区間の産業道路を突き抜け仁川港の後背輸送路を拡充して中・東区都心地の交通渋滞を解消するという名目だった。ペダリ区間(3工区)掘削工事は住民たちの反発で2年間中断された状態だ。

住民たちと地域文化運動団体らは2007年3月 ‘ペダリを守る仁川市民の会’ を結成し、産業道路建設事業白紙化運動を展開してきた。産業道路が由緒深い町と昔の建物を追い出すだけでなく、ペダリの村を二分して固有の生活空間を破壊するという理由だった。地域住民3千人余りは昨年道路開設の問題点を暴くために監査院監査を請求することもした。監査の結果、ペダリ入口地下車道が基準値より低く設計されており、周辺文化財に対する地表調査もせずに工事を強行した点などが指摘された。しかし監査院は事業進行を継続することができるという結論を下し、住民たちは記者会見を行い「監査が道路建設を前提に仁川市の立場を代弁した」として反発した。

仁川市は工事を継続するという態度だ。仁川市関係者は「すでに1千億ウォン以上の予算が投入された状況で工事撤回は現実的に難しい」として「監査院指摘に合わせて再設計などをしているので今年の下半期にはペダリ地域道路工事を再開できるだろう」と明らかにした。

仁川=文イム・ジュファン記者eyelid@hani.co.kr・写真リュ・ウジョン記者wjryu@hani.co.kr

原文:http://h21.hani.co.kr/arti/society/society_general/24868.html 訳J.S