‘焼き殺せ’ ‘全員銃殺’等
日本軍の東学虐殺が詳細にあらわれ
当時の韓国人による抗日闘争を否認する
日本政府の主張を覆す画期的資料
"3万人虐殺…日本 最初の大量虐殺"
"そこ(羅州(ナジュ))に到着した。 南門の外側に小さい山があり、そこに死骸が積み上げられ本当に山となっていた。…彼ら民兵または、我が部隊兵士に捕まった者は、尋問した後に重罪人は殺した。 毎日12人以上、103人に及んだが、そちらに捨てた死骸は680人に達した。 辺りは悪臭が立ち込め土地は白く人間の脂で固まっていた…。" "(海南(ヘナム)の)東学残党の一部である7人を捕まえてきて今日(1月31日)城の外側の畑中に一列で並ばせ銃剣を付着した後にモリタ一等軍曹の号令により一斉に刺して殺した。 これを見物していた韓人や統営兵士たちがかつなないほど驚いた。"
清日戦争期である1895年1月、日本の鎮圧軍が全南(チョンナム)羅州(ナジュ)、海南(ヘナム)、長興(チャンフン)一帯の東学農民軍を無差別虐殺した当時、後備第19大隊第1中隊第2小隊2分隊に配属されていたある日本人兵士が残した‘陣中日誌’の一部だ。 1995年7月、北海道大文学部研究室でさらし首にされた東学農民軍の骸骨が発見され、日本軍の公式報告書も一部残って伝わっているが、生々しい当時の状況が記録された個人の日記が公開されたことは異例的だ。
陣中日誌は井上勝生(68)北海道大学名誉教授が昨春、日本のある郷土史学者の紹介で徳島県出身兵士の子孫から入手した。 井上教授は中塚明(84)奈良女子大学名誉教授、朴孟洙(パク・メンス)(58)円光(ウォングァン)大教授とともに先月日本で出版した<東学農民戦争と日本:もう一つの日清戦争>(高文研 編)でこの日誌の詳細な内容を明らかにした。
南小四郎大隊長(少佐)が率いた後備軍第19大隊は "一人残らず殺せ" という当時日本大本営の命令により東学農民軍‘三路包囲殲滅作戦’に出た部隊であった。 南大隊長が井上馨 当時駐韓日本公使にあげた公式報告書では、羅州処刑者数を230人と明らかにしたが、この日誌ではその数が3倍近くの680人と指摘している。
井上教授は "捕えて銃殺" "厳しく拷問" "全員銃殺" "民家を焼き尽くせ" "焼き殺せ(焼殺)" "拷問し銃殺した後、死骸は燃やせ" のような言葉が随所に出てくる今回の日誌が 「日本軍虐殺にともなう地獄絵を証言している」と表現した。 最近の東学農民戦争研究によれば、日本軍の無差別虐殺で亡くなった東学農民は3万~5万人に達する。 3人の共同研究の座長である中塚教授はこの日誌が清日戦争当時の韓国(朝鮮)人の抗日闘争を今なお認めようとしない日本政府や研究者の主張を覆すことができる "画期的な" 資料と評価した。
日本文部省は日本高校日本史教科書の執筆者であった家永三郎(1913~2002)教授が1965年から日本政府を相手に提起した有名な‘教科書裁判’で家永教授が自身の本に記述した "日清戦争時の朝鮮人民の反日抵抗" 部分を削除するよう命じ、1997年日本の最高裁判所も文部省の手をあげた。 井上教授はこの本で当時日本軍と日本政府が韓国人の抵抗事実を隠すために東学‘討伐’過程で戦死した日本軍人を清国(中国)軍との戦闘で戦死したことに歪曲して靖国神社名簿にあげていた事実も明らかにした。
中塚教授らは東学農民戦争虐殺を "日本軍最初のジェノサイド(大量虐殺)" と規定した。 中日戦争と2次大戦時の‘南京虐殺’等、日本軍が20世紀に犯した集団人種虐殺の始まりが19世紀末の東学の時から始まったという話だ。 歴史家 原田敬一は最近著書<日清戦争>で日清戦争当時の戦死者を "日本人 約2万人、中国(清)人 約3万人、朝鮮人(東学農民戦争戦死者) 3万人以上" と推算した。 ‘清日戦争’という名前をつけた戦争の最大犠牲者は実は韓半島の人だったということだ。
事実、東学農民軍と日本軍の戦いは相手にならないほどであった。 後備第19大隊の場合、戦死者はたった1人、病気と事故などで亡くなった者は36人という記録もある。 西側の最新式ライフル銃で武装した日本鎮圧軍(最大4000人と推算)は‘竹槍と火縄銃で武装し旗を振りながら笛を吹き太鼓を叩きながらあっという間に丘を白く覆うほど日本軍に向かって殺到した’農民たちを容易に制圧した。
清日戦争当時発行された<宇和島新聞>に載せられた洪州(ホンジュ・忠南(チュンナム)洪城郡(ホンソングン))に投入された第2中隊配属の一等軍曹が兄に送った手紙にはこのような一節もあると<東学農民戦争と日本>は伝える。 "敵(農民軍)が近接するのを待った。 敵は先を争ってめちゃくちゃに乱進してきた。 400mまで近づくや三方面に布陣した我が部隊が先に狙撃を始めた。 百発百中、実に愉快だった。 敵は烏合の衆の土民、恐怖感で前進できず。(この日3100余発を撃った)" 当時、東学農民軍虐殺は日本総理 伊藤博文と陸奥宗光外相、井上馨 駐韓公使などの直接命令に従ったものだった。 日本は1894年東学農民運動勃発後、清国が派兵するや天津条約を口実に渡ってきて、景福宮(キョンボックン)を占領した。 ‘斥洋斥倭’を前面に掲げた東学2次蜂起はこのような日本に対する抵抗の意味が大きかった。 後備第19大隊を率いた南大隊長は明治維新の時に幕府打倒・尊王攘夷を前面に掲げて結成した長州藩地方軍の幹部であった井上公使の直属部下出身。 当時の日本軍は正規軍と予備役、そして後備役で構成されていたが、後備兵は戦場で海千山千を経た28~32才の既婚男性で構成されていた。 明成(ミョンソン)皇后(閔妃)殺害を現場で行ったのもまさに後備兵だった。
中塚教授らは個別戦闘で東学軍は惨敗したが、全体的に見れば東学軍の長期ゲリラ戦が日本軍を苦境に陥れ、これは「後日、中国共産軍やベトコンのゲリラ戦のような強者である西側侵略に対抗し、弱者であるアジア人が伝統的に抵抗する方式の先駆を成し遂げたこと」と評価した。
ハン・スンドン記者 sdhan@hani.co.kr