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龍山惨事、忘却に対する反省と省察

原文入力:2012/06/17 20:48(1815字)

←ソウル、龍山(ヨンサン)4区域撤去民対策委員会会員たちが占拠籠城している龍山区、漢江路(ハンガンノ)3街のあるビルディングに2009年1月20日明け方、警察が強制鎮圧に出るや望楼が火炎に包まれた。 キム・ミョンジン記者 littleprince@hani.co.kr

ミン・ヨングンのディレクターズ カット
ドキュメンタリー‘2つのドア’
撤去民はなぜ望楼に上がったのか
鎮圧と裁判過程はどうだったのか
興奮せずに物静かに再構成
隠れた加害者に向けて‘一針’

 私たちはしばしば、熱く怒って簡単に忘れる。 数多くの憶測と意図的歪曲の中で怒りの本質は薄められ、真実は行き場を失う。 皆が怒りを背に負ったまま一生を生きていく訳には行かないが、忘れやすい私たちはそれだけにきちんと記憶しておかなければならない。 何が私たちを怒らせたのか、何がこのような悲劇を産み出したのか。 再び繰り返されないために、きちんと記憶しておかなければならない。

 2009年1月20日. ソウルの真中である龍山のある建物の屋上で6人の人が火炎に包まれ命を失った。

 生存のために崖っぷちに立たされた撤去民5人と、その鎮圧のために投入された警察特攻隊員1人が彼らだった。 ある人はこの悲劇が警察の過剰鎮圧のためだと言い、またある人は撤去民の過激示威のためだと言った。長々しい攻防の末にいつものように事件はますます忘れられて行き、数多くの疑惑を残しただけで真実は隠蔽された。 結局、無力で無念な人々だけにすべての責任が転嫁され事件は終結した。

 ドキュメンタリー<2つのドア>(6月21日封切り)は法的にすでに終結したこの日の事件を3年が過ぎた現時点に再び呼び入れる。 そして警察の陳述と証拠動画に基づいてこの日の事件と裁判過程を再構成して見せてくれる。 映画は撤去民の立場だけを代弁したり、激昂した感情で怒りを表出する代わりに、物静かで冷徹な視線でこの日の事件を几帳面に復碁する。 事件当時、発火の直接的な原因ばかりに執着した捜査方向はむしろ事件の本質を曇らせる枝葉的問題だということ、映画は事件の背景と本質に向かって多角的に接近して行く。 ‘経済を発展’させるために‘法と秩序’を厳格に適用させるという李明博大統領の姿に始まり、事件が起きた日の時間帯別状況と警察特攻隊の投入情況、事件を縮小隠蔽しようとする検察に対する疑惑などを緻密に再構成している。 その再構成された姿の中に発見することになる私たちの社会の姿は真に恐ろしくて哀しい。 撤去民を望楼に押い込んだ残忍な資本のシステムと警察特攻隊を望楼に送った奸悪な権力のシステム. 無力な人々だけを熱い火炎の中に押い込んでおきながら巧妙に隠れてしまった事件の真の加害者を思い出させ、不当で不条理で不道徳な私たちの社会の権力に対してもう一度見て回ることになる。

 <2つのドア>が持っている真の力は、洗練された映画的完成度と成熟した映画的視線が調和して均衡を成し遂げているところにある。 映画は簡単に怒ったり速断したりせずに、一つの事件を巡る多くの肌理を几帳面に見せる。 その成熟した細かな視線を通じて、2009年の龍山事件を跳び越え、時代を貫く歴史的含意を感じさせる作品でもある。

 このような疑問を提起する人がいるかもしれない。 なぜ3年が過ぎたこの時点で、法的な判決も終わったこの事件を再び引き出さなければならないのか。 その質問に対する返事は、私たちの忘却に対する反省と省察だ。 「放水銃を早く撃て! 全ての警察官は放水銃を全て稼動させろ、全部、全部だ!」水では消化できないシンナー上に放水銃を撃てと命令した当時の警察指揮本部のあきれた命令は今も私たちの社会のあちこちで繰り返されている。 34年ぶりに襲ってきた最悪の旱魃で全国土が疲弊しているが、4大河川工事によって洪水が起きなかったと言って自身の業績を誇っている分別のない大統領を作り出したのは、もしかしたら我ら自身の忘却のためかもしれない。 私たちには熱く怒った後に冷たく省察しなければならない義務がある。

ミン・ヨングン映画監督

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/movie/538161.html 訳J.S