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【本と考え】1950年10月、配達されることのなかった平壌(ピョンヤン)の手紙

原文入力:2012.04.13 20:53修正:2012.04.13 20:54(3125字)

 
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  1950年10月5日、平安北道(ピョンアンブクト)博川郡(パクチョングン)博川面西部里(ソブリ)(現在の博川邑)のリュ・ギョンヒが平壌(ピョンヤン)にいる兄リュ・ギョンチャンに宛てた手紙。 爆撃で妻と子供が死んだという兄の電報を受け取ったその日すぐに書いて出したが、とんでもないことに米軍の手に渡って米国に行き、62年ぶりに韓国に流れてきた。 サミン提供


『朝鮮人民軍の郵便受け4640号』イ・フンファン編 / サミン出版社・1万5000ウォン


 戦争は軍人の間の戦いだ。 だが、現実には軍人より民間人がさらに多く死んだり負傷したりする。 朝鮮戦争での民間人死傷者は249万人。 軍人死傷者223万人より多かった。 しかし戦争を記述した歴史において、彼らの存在はたびたび消され忘れられる。

 


『朝鮮人民軍の郵便受け4640号』イ・フンファン編 / サミン出版社・1万5000ウォン

『朝鮮人民軍の郵便受け4640号』は朝鮮戦争当時の北の平凡な人々の話を伝えてくれる、非常に稀なそして独特な本だ。 1950年10月19日韓国軍が平壌に進入する前の9月中旬から10月初めまで、米軍は大々的に平壌に爆撃を加えた。 10月1日から17日までの間に平壌(ピョンヤン)郵便局に到着した手紙は、戦争のために結局配達されずに終った。 平壌(ピョンヤン)に入った米軍部隊がこの手紙を掻き集めて持って行き、以後米国国立文書保管所に保管されてきた。「捕獲北朝鮮文書」という名前で1138番・1139番の箱に入れられ密封されていたこの手紙が、一般に公開されたのは1977年。しかし平凡な市民の手紙なのでその後も30年以上研究者の注目を浴びることなく保管所のすみに積まれているだけだった。



平壌(ピョンヤン)郵便局で米軍が押収
1千通余りに戦争の最中の暮らしがぎっしりと

 そして2008年、韓国国立中央図書館の文書収集チームが初めてこの手紙に目を向けた。 『朝鮮人民軍郵便受け4640号』は永遠に配達されることのなかった手紙728通とハガキ344枚の中から選んで編集した本だ。 正書法も違い文体も異なる60余年前の手紙には、自分の意志と関係なく戦場に駆り出された人々の実状、生死の別れ目に置かれた人々の凄絶な状況、思想よりもさらに濃い血縁の情などが化石となりはしたものの、鮮明に映し出されている。

 
「あまり驚かないでほしい。平壌(ピョンヤン)の消息を知らせる。 9月16日にやつらの空襲に数百人の人が死ぬような中で私たち2つの家族は天命で生き延びた。 おばさんのうちも爆弾でめちゃくちゃに破壊された家の中で生き延びたし、うちの家族は家の中にいて爆弾の破片の中を辛うじて身一つで抜け出し生き延びた。 私は現場に行ったが煙がすごいので家に戻ってみると家族は泣いているところだった。」  10月5日に平壌(ピョンヤン)のペク・インハが咸鏡南道(ハムギョンナムド)高原郡(コウォングン)クウォン面クムス里の妹チョンスクに送った手紙を見れば、当時爆撃がどれほど激しかったかが分かる。
 
妻と息子を失った平壌(ピョンヤン)の兄を慰める平安北道(ピョンアンブクト) 博川面(パクチョンミョン)西部里(ソブリ)に住むリュ・ギョンヒの手紙は、むしろ戦争文学作品だったらと思うほど切切としている。 「何とまあ、兄さん一人を、このように一家族を哀れにもなぎ倒してしまったなんて、この妹の胸は、辛くて真っ黒に焦げてしまいそうです。でも、亡くなった人はもういないんですから、生きている人は生きなくては・・・歩いて4,5日でも、大変でしょうけれど、歩いてでも来て下さい。子供たちは私が面倒を見ますから、少しも心配しないで連れてきて下さい。」(10月5日)


 司法省司法幹部養成所で研修中の誰かが 平安南道(ピョンアンナムド)陽徳郡(ヤンドククン)の祖国保衛後援会宣伝指導員である夫に書いた手紙には、北朝鮮政府が平壌(ピョンヤン)から退却する時の急迫した様子が描かれている。「午後に上部の指示によって勉強を止めて全部軍隊に行くことになったので、仕方ありません。お金もないし。 審査を受けてどこかの職場に送られるのか軍隊に行くことになるのか分かりません。どこに行っても私は大丈夫ですから・・・あなたに会えないのが辛くて一時もじっとしていられません。」(10月11日)


夫に宛て
「とにかく命だけは無事で・・・
懐かしく会える日を心の中で記憶しましょう」
妻に宛て
「子供は何としてでも育ててほしい
食べ物がなければ物乞いしてでも」


 同じ日に書いて一緒に封をした手紙を見れば、韓国軍の平壌(ピョンヤン)入城10日前の8日から中央の幹部たちが秘密裏に新義州(シンウィジュ)を経て中国の安東(アンドン)に逃走する方策を立てていたし、私的に女友達にこれを耳打ちして避難資金に使うようにと札束を握らせる中央幹部の姿も目につく。 大田(テジョン)以南に逃走しながらソウル死守の録音放送を流したイ・スンマン政府を連想させる部分だ。 手紙の主人公は夫にこのような事実を伝えながら、できれば軍隊に行かずに後方で事業をするようにと書いている。
 
これに比べ、普通の人たちはどうすることもできず、心配したり銃弾避けになるだけだ。 平安南道(ピョンアンナムド)安州(アンジュ)郡海岸のチョン・チョンソンは咸鏡北道(ハムギョンブクト)明川郡(ミョンチョングン)東面(トンミョン)ヤンギョン里の妻パク・オクソンに、農村だからと油断せずに「敵機が来襲した時は無条件に防空壕に隠れろ」と言い、二人の息子を「食べる物がなければ物乞いしてでも」何とか無事育ててほしいと頼む。 平安南道大同郡(テドングン)金祭面(クムジェミョン)院場(ウォンジャン)里に送る二枚のハガキからは、ある村の二人の青年の事情が察しられる。 宛名が違うだけで筆跡は同じ。「ノンガンに配置されて平原郡(ピョンウォングン)に入隊して行くことになりました」と知らせ「返事も出さないように、面会にも来ないように」と伝える。 これは撤収する幹部たちの代わりに平壌(ピョンヤン)防御のために10月9日急いで徴集されたもののようだ。
 
平壌(ピョンヤン)の人民軍女性戦士チェ・スンオクが退却に先立ち黄海道(ファンヘド)安岳(アナク)にいる母親カン・イドクに送った手紙は遺書のように感じられる。


 「お母さん、今度私が軍隊に入隊する時スンドク姉さんが私のトランクを持っていきましたけど、そのトランクは鍵がかかっているかもしれません。でも、それをこじあけて、トランクの中に白い下着があると思いますから、寒いからそれをウォングンに着せて下さい。 そしてそちらで使うものがあれば全部取り出して使って下さい。私は軍隊内で越冬準備として必要なものは全部もらいました。」


 戦争のただ中で米軍が押収した手紙が、かえって当時の状況をすっかりそのまま伝えることになった事情がアイロニーだ。 編者は今でも手紙が配達されることを願い、手紙を写真に撮って全文を載せ、発信者と受信者を明記したと語った。 生きているならば八十才を越えているだろうその家族のために。


イム・ジョンオプ先任記者 blitz@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/528273.html 訳A.K