原文入力:20111020 19:11(1877字)
選挙の時節、あちこちで聞こえる "弱者を世話します" という言葉
そんな言葉は到底信じられない
←キム・ヨジン演技者
昨年の春、田舎の小さな家で深刻な知的障害を持った30人の子供たちを育てられた牧師様にお目にかかったことがある。青春期に15年間、結核患者とともに過ごし、以後は両親から捨てられた子供たちを世話するために牧師の身分を持つようになったその方が話された一言をお伝えしようと思う。年末にも障害者施設を訪ねて行ってくれることは良い。 一年に一度も行かないことよりは良い。 菓子のようなものを買っていくのは止めなさい。 一度に多量のインスタント食品を食べた子供たちは必ず腹痛を起こす。 だまってお金で渡しなさい。必要なものはそちらの人々が一番よく知っている。 もっと良いことは恩着せがましくせずに毎月いくらかをきちんと応援することだ。 予算を組んで運営できるようにしなさい。 そしてどうか一緒に写真を撮ろうなどとは言うな。 来てくれたお客さんの気持ちが傷つくかと思って断られはしないだろうが考えてもみなさい。 あなただったら写真を撮りたいだろうか? 朝、顔がちょっとむくんでいたり、着た服が気に入らなくても写真を撮りたくないでしょう。ところで、その姿でその境遇にある人々が美しく優秀なあなたのそばで写真を撮りたいかということだ。 話している間、ずっと日常的で物静かな語調で笑っておっしゃったが、聞いている間ずっと心がちくちく痛んだ。 本当にどれほど少なく出して、どれほど多く恩着せがましくして生きてきたのかと思った。
最近また心がちくちく痛む。選挙の時節だからなのか、あたかもスローガンのようにあちこちで聞こえる「弱者を世話します」という話のためだ。弱者とは何か? 弱い人、世話を見てあげなければならない人。 お金があったり力がある両親に恵まれたかだか‘入試競争’で生き残ったからと、就職競争や高等試験競争で優位を占めたからといって‘強者’なのか? 社会的使い途で確かめてみれば、だから、なくてはならない順序で確かめてみれば、そのような人こそが‘弱者’だ。他人の労働によって食べて着ているだけだ。 きれいなところに身を横たえることができるだけだ。 夏、水害があった日、あるアパートの地下で配電管理を担当して死んでいった警備員よりもっと役に立つ人、もっと強い人だと言えるかということだ。それで‘社会的弱者’という表現を使ったりする。
私たちが生きる社会の契約の中で不当に疎外され、自身の労働が自分の価値を認めてもらえない汚い仕事、つらい仕事をしながらも貧しく生きるほかはない人々がいる。 とても多い。 自分がそうではないからといって安心することでもない。今の安全網程度の水準なら、あっという間にそのような境遇になりうるのだ。 万一、自分が力やお金をもう少し持っているならば、‘社会的強者’の位置にあるならば、その方々が持たなければならない心は‘惻隠の心’ではなく‘借りを返す心’でなければならないということだ。 一日でも早く自分が享受して持っているものが本来の場所を訪ねて行くよう努める心。低いところを世話する心ではなく、自分が実は最も低くつまらない人であることを悟る心であるということだ。 よく公職者に要求される‘謙虚’という徳性は、もしかしたら‘汝自身を知れ’というあまりにも当然の命題なのかも知れない。明洞(ミョンドン)で、浦二洞(ポイドン)で、数十年間そこで暮らしてきた人々に対し夜明けに押しかけ暴力を振り回すその青年たち、外注ガードマンという名前の男たち、彼らを雇用した会社、その厳然たる暴力に目をつむっている官公庁、いくら訪ねて行っても一度も顔を見ることができなかったその地方区議員、会社でセクハラに遭い人権委に陳情したという理由で解雇され‘女性家族部’前で200日近く座り込みをしている女性労働者、反対に追い出し妨害しようとする担当部署の職員ら…。今になっていくら「弱者を世話します」と歌を歌ってみても、そんな話を到底信じられないのは、すでにその話の中に強固に位置した特権意識と強者の立場のせいだけではない。 今でも起きている恥知らずな現実の絵がある。主語はない。 ただひとりの問題でもないから。
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/501679.html 訳J.S