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[パク・ノジャ コラム] 人を殺す社会

原文入力:2011/06/09 19:21(1769字)

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韓国学を教える人間として常に一つの困難に直面する。学生たちに「韓国の自殺率が経済協力開発機構(OECD)国家中で連続して1位を占めている理由は何なのか」という質問を受ければ率直に言って閉口する。韓国に対する解釈をノルウェー社会に提供しなければならない人間としてはこの現象を社会学的に解明できず専門性に懐疑まで感じるということだ。
‘新自由主義の深化にともなう民衆生計の不安化’? まず間違った話ではない。特に不渡りを出した人々の中には悲観自殺がありふれていることが知られていて、家庭の生計に対する責任を本格的に負うことになる30代では自殺が主要死亡原因1位の位置を占めているので、両極化や労働の不安化などと自殺率の関係は疑いがない。 1995年と1998年を比較する時、1997年の外国為替危機と構造調整の余波で自殺者数がほとんど2倍にぐんと跳ね上がったのも厳格な事実だ。しかし韓国に劣らず新自由主義が強打した南アフリカ共和国やエストニアなどの色々な重鎮資本主義国家では自殺率が韓国の半分にも達し得ない。すなわち、単純に最近の民生苦だけを恨むことはできない状況だ。

‘集団構成員としての責任を強調する儒教的社会としての特徴’? それも間違った診断ではない。‘民主’(すなわち、穏健自由主義)勢力の指導者の役割を正しく果たすことができずに、責任を負わなければならないという判断を下し、この世に別れを告げた盧武鉉前大統領を始め、悪い成績のために今後 名門大に入り孝行息子・孝行娘の役割を果たせないと判断し‘成績悲観自殺’の道を選ぶ高校生に至るまで、この社会で自殺はよく‘集団に対する責任の表現’に通じる。しかし‘責任の倫理’とともに先祖から受け継いだ身体を自ら傷つけないようにすることも儒教の伝統だ。すなわち、伝統を通じた説明もその限界を示している。

筆者としては社会学的に‘自殺共和国’としての韓国の現実を解明することが極めて難しいが、体験的にはいくらでも説明することができる。

経済的要因も社会・文化的要因も作用するだろうが、根本的には資本主義が徹底して内面化されている最近の韓国社会で愛が不可能なことが問題であろう。他人のために惜しみなく自分自身を捧げることが愛だが、この社会では自身からの逃避や所有欲が愛の名前で包装されている。教会や寺刹ごとに神への愛と仏の悲が叫ばれるが、その実状を詳しく見れば寄付やさい銭を与え罪に対する免罪符や利潤追求ジャングルでの成功に対する呪術的な保障を買えという話に過ぎない。私たちは子供たちを愛するというよりは、子供の教育に‘投資’し、後になって子供がおさめる‘成功’を共同所有しようとしている。血がにじむ学習競争に追いやられ両親の恐怖と所有欲の代価を代行しなければならない子供は、殺人的体制の‘ねじ’に転落してしまったその両親を本当に愛せるだろうか? 入試学院となった学校や、授業料を略奪し時間講師や環境美化員など非正規職労働者らを悪質的に絞り取る悪徳企業となってしまった大学で知ることに対する純粋な愛を育てることができようか? ‘人件費節約’が主なモットーになった企業体で仕事をしながら、自身の労働を愛することができるか?

ドストエフスキーの言葉の通り、愛が不可能な世界が地獄ならば、私たちは地獄で生活をしているということだ。地獄に落ちた人間が自殺という方法を通じて地獄を絶望的に抜け出そうとするということは果たして驚くべきことなのか?

筆者は北韓社会の世襲的な首領主義や過度な軍事主義、国粋主義水準の‘朝鮮民族第一主義’に賛同できない。しかし北韓社会が今のように‘現実社会主義’世界でもめったに見ない閉鎖的形態にわい曲されるように成長しなかったとすれば、筆者はいっそ今日 韓国より北韓でも選択しただろう。貧困と抑圧には耐えられても、人間を商品化し愛の可能性を源泉封鎖したこの社会の雰囲気には人間として耐えられない。 ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/482012.html 訳J.S