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[キム・ヒョスン コラム] ハンセン人、チョ・ヨンピル、朝鮮学校

原文入力:2011-04-17午後08:13:53(1775字)

←キム・ヒョスン論説委員

先週末、久々に温かい便りが伝えられた。歌手チョ・ヨンピル氏が全南、高興郡の国立小鹿島(ソロクド)病院で単独慰問公演を行い、1年前にした約束を守ったという。昨年の子供の日、英国フィルハーモニック公演の時に同行した時、また訪ねてくるという話をしたがその約束を守ったのだ。一つの部門で大家になった人はやはり何かが違うということを痛感する。

小鹿島住民たちが久しぶりに歓喜のルツボにはまったことを思えば、自ずから心が晴れ晴れする。82才のあるハルモニは指などからだの一部が麻痺し視力を失った状態だが、車椅子に座って肩を揺すった。71年間、病院にいたと言えば、日帝植民統治末期の1940年頃に収容されたわけだ。国立小鹿島病院の前史は総督府が1916年に設立した小鹿島慈恵医院に遡る。小鹿島は日帝が行ったハンセン人強制隔離政策の産物だ。日本は1907年、らい病予防法を制定し発病した患者を‘療養所’に入れた。だが、名前だけ療養所であり内実は監獄と違わなかった。収容された患者は強制使役をしなければならず、規律に反すれば懲罰房に収監された。悪名高い日本のハンセン人強制隔離政策は太平洋戦争敗戦後に一部緩和されたものの、基本枠は1996年まで続いた。

ハンセン氏病はよく貧しい人々の病気と言われる。きちんと食べられずに栄養失調になれば発病する。病気を起こす菌も結核菌と似ている。日帝強制占領期間に日本に連行され労働をしたり軍隊に入った朝鮮人の中で患者が多く出た。朝鮮人の発病比率は日本人と比較できないほどに高かった。日本法務研修所が出した<在日朝鮮人処遇の推移と現状>によれば、1955年3月末時点で登録在日同胞の内、ハンセン氏病療養所入院者の比率は0.11%だった。反面、日本人収監者の比率は人口対比0.011%であった。概略10倍の差異がある。この資料は1949年5月時点で韓国人推定患者を全体人口の2.1%と算定した。単純比較すれば韓国の患者発生比率が日本の191倍に及ぶということだ。日帝の苛酷な統治、解放後の混乱、独立国家の体制未整備などを考慮してもあまりにも多い。

日帝時、小鹿島の収容実態は日本国内療養所よりさらに苛酷だったという。だが、日本で収監された朝鮮人たちも冷酷で苦しいのは同じだった。日本人患者より処遇がさらに苛酷だったためだ。特に女性たちの場合は民族差別、ハンセン人差別、女性差別など三重苦に苦しめられた。1924年、慶北で生まれたアン・スリムの一生は人間の尊厳を根こそぎ奪われた典型的事例として指摘される。彼女は大阪で病気に罹り、17才の時に療養所に強制収容された。療養所で会った男性と一生を共にすることにし結婚した。収容所当局は患者どうしの結婚は許容したが、男は不妊手術を受けるようにし女が妊娠すれば強制堕胎をさせた。アン・スリムは時が来れば脱出する覚悟で妊娠した。しかし夫が療養所が薦める試薬を服用し副作用でからだが悪くなり脱走計画が挫折した。看護師は人工流産をさせた後に嬰児を少しの間だけ見せそのまま生命を絶たせた。看護師がまだ息をしている男の子をうつ伏せにして殺す前に言った言葉は「もう見たからいいでしょ」だった。

日本国内の療養所にいる在日同胞生存者は各々こういう恨みが極に達した所以を持っている。彼らをときおり訪ね慰問公演をし、そのすさまじかった時期の話を聞く同胞学生たちがいる。朝鮮学校の学生たちだ。東京都、東村山市の療養所にいるパク・スリョンという80代後半のハルモニは昨年12月、小学生たちが韓国語で書いた年賀状を受け取り「まだ忘れられていなかったんだね、とても感慨無量だ」と話した。仙台にある東北朝鮮学校が去る大地震の時に被った被害で危機に陥っているという。こういう学校が門を閉めることになれば、生き生きした証言を通じて過去を記憶させる学びの場がそれだけ減ることになる。 キム・ヒョスン論説委員 hyoskim@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/473396.html 訳J.S