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[ホン・セファ コラム] 持てる者の品格

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/468921.html

原文入力:2011-03-20午後08:01:12(1826字)

ホン・セファ ルモンド ディプロマティク韓国版編集者

19世紀フランスの文豪ビクトル ユーゴは、多くの人々が‘分かち合い’を肯定的に眺めるのは皆が施す側に立って分かち合いを考えるためだと指摘したことがある。分かち合いの対象、すなわち施しを受ける境遇に立っては考えないということだ。これは施す者が社会的発言権を独占しているためだが(施しを受ける者は有口無言だ)、ユーゴが分かち合いに関して抜本的に考えたことは施恵、温情の対象はすでに人間の尊厳性が毀損された状態であると見たためだ。私的分かち合いが要求され称賛を受ける社会よりは、そのような分かち合い自体が要求されない社会を作らなければならないということだ。(もちろん地震や津波のような天災地変を被った日本の民衆に対して分かち合いを実践しなければならないことは言うまでもない。)

分かち合いを施す者が、施しを受ける者の毀損された人間の尊厳性、意地汚さと屈従に対しても推し量ることができ共同責任を少しでも感じるならば、私的分かち合いよりは公的分配に関心を持ってこそ当然だ。この頃、私たちの社会で誰もが福祉を語っているが、ここでも最も重要な哲学は人間の尊厳性でなければならない。施恵的(選別的)福祉が私的分かち合いのように 大概はすでに毀損された尊厳性の生存に接近することならば、普遍的福祉は社会構成員の尊厳性が毀損されないよう それ以前に接近することだ。換言すれば増税を通じた公的分配なしで福祉を行うということは私的分かち合い、すなわち施恵的福祉に留まるという言葉と大きく変わらないのだ。

私たちの社会では全く同じ言葉の‘分かち合い’と‘分配’が全く異なって受けとめられる。私的分かち合いには皆が寛大だが、公的分配には烈火の如く怒り反対する人が少なくない。特に持てる者が私的分かち合いを強調する時、私たちはその中に公的分配の要求を予防しようという意志が含まれていることを見逃してはならないだろう。

たとえばチョン・ウンチャン同伴成長委員長が提起した超過利益共有制に対してイ・ゴンヒ三星総帥は「社会主義国家で使う言葉なのか、資本主義国家で使う言葉なのか、あるいは共産主義国家で使う言葉なのかを全く分からない」と応酬した。彼が普段から抱いている成長の反対である分配に対する敵対的意志が中小企業の技術を横取りし納品単価を値切り倒す財閥企業の強者独占構造までが資本主義経済の秩序であるかのように強弁するに至ったのだ。いわゆる‘共生協力’が単なる言葉の羅列に過ぎない彼には、持てる者の高品格が要求される公的分配に対する認識を期待することは井戸でおこげ茶を探すようなものだ。

最近ドイツの巨富 ピーター・クレイマーは米国のウォーレン・バフェットやビル・ゲイツの寄付文化を正面から批判して出た。社会で得た利益を公的機構を通じずに私的財産として気前よく施すように寄付しているということだ。彼は 「米国では寄付額の大部分が税金控除されるので、金持ちたちは寄付をするか、税金を払うかを巡り選択することになる」と話すことにより、私的分かち合いと公的分配を明確に区分した。そのように公的分配の重要性を認識する品格どころか、米国のブッシュ政権が相続税廃止法案を出した時に先頭に立って反対したウォーレン・バフェットやビル・ゲイツのような金持ちの品格すら容易に見当たらないのが私たちの社会の持てる者らの実状だ。

このように持てる者らの姿もまた、それぞれ彼らが属する社会の反映物だ。今日のような資本独裁の時代に、彼らに彼らの製品に付与されているような高品格を願うのは彼らにnoblesse oblige(指導層が持つ道徳的義務)を要求するようなもので、彼らに期待するのではなく私たちの批判的力量と実践にこそかかっている。それは白血病に罹り花のように美しい年齢で倒れた三星電子の労働者たち、25才の息子の死に悲痛の声をあげ今日も三星本社前で2ヶ月以上も1人示威を行っている母親と連帯するひとりひとりの行動と声にかかっている。 <ルモンド ディプロマティク>韓国版編集者 hongsh@hani.co.kr

原文: 訳J.S