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「角立った石」礼賛論

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/32499

原文入力:2011/03/11午前02:00(2943字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

「角立った石は鑿で打たれる」(出る杭は打たれる)という諺がありますが、私はこの言葉こそいわゆる「常識」が必ずしも物事の道理に合わない一例と思います。もちろん、この類の諺が出来た歴史的な背景は十分に理解できます。韓半島では―とても残念なことに―民が官に対し完勝を収めたことはありません。王朝、すなわち「官」組織の交代の経験も、外勢に頼った急進的な改革の経験(解放直後の北側の場合はこれに当たるでしょう)も、1987年のような未完の、ほとんど未完の革命の経験もあるものの、「民」はそれでも一度も「完勝」を収められずじまいでした。従来の序列がうまく解体されない状況では「上を犯す」ことは恐れられ、「上を犯し」そうな「角立った」性格があまりもてないのは仕方のない現実です。しかも今まで大多数の韓国人が実際に生きてきた環境とは、都会化以前の厳格な長幼の序の秩序によって動かされる村社会や、都会化以降の開発独裁の文化政策により長幼の序的な秩序を厳格に取り入れた学校や職場などの「組織」です。「組織型人間」の最高の徳目は「丸く振舞うこと」です。もちろん後輩や部下に対しては必ずしも「丸く」振舞わないこともありえます。2008年6月の『エコノミー21』に出た、ある会社員アンケート調査の資料によれば、全体の約60%が「後輩をいびること」を肯定的に考えているということです。「軍規を引き締める」方法は、先進化している大韓民国の文化の多様性に相応しく多様ですが、私の理解では、金属バットで殴ったり、グラウンドを走らせたり、跪かせたりすることなど、現代版「賎民」、すなわち低学歴肉体労動者や女性非正規労働者、外国人労動者たちに限られているようであり、「良民」、すなわち高学歴男性社員の間では主に「突然キレること」ぐらいのようです。ところが、部下には「丸く」ならずとも この「組織社会」が作り出した人間たちは上司には本当に「丸く」なりまくるのです。『エコノミー21』の同記事によれば、96%もの社員が上司からの個人的な頼まれ事も引き受けると答えています。お茶汲みは基本で、上司が強く勧める保険に加入することや、「上司の家族に代わりに嘘をついて上げること」などは難なくこなせるということです。まことに「上司しやすい国、大韓民国」、国際広報の絶好のネタになるでしょう。

ところが、このようにして「丸く」生きることは本当に心身の健康に良いでしょうか。率直に私の個人的な経験から見ても必ずしもそうではないようです。上司に対し習慣的に微笑みを浮かべ「絶対に逆わない」振る舞いで一貫することはしばらくは得をするかもしれませんが、長期的には深い傷として残り、一生をぶち壊しかねません。私の経験を申し上げますと、「一生」までは幸いに至りませんでしたが、あまりにも「丸く」振舞ってしまい、深い心的外傷を引き起こしたことがあります。約13年前、国内のある私大でロシア語を教えていた頃、その大学の「万能な」総長と関係がありそうな、すなわち「権勢」を振るう位置にあった同じ学科のある教授が -本人が総長の要求により翻訳しなければならなかったはずの- 文献の露訳を私にさせたのです。ごく当たり前のことのように。私は -「これからは総長から直接頼んでもらいた」という文句は付けたものの- その時は言われた通りにやりました。どうしてそこまで従順だったのでしょうか。革命精神をほとんど失い、官僚化・小市民化してしまったソ連末期の「集団からの逸脱」への恐怖に慣れてしまったせいだったのでしょうか。「権勢のある人」がそうでない人を床拭き雑巾のように扱ったりしたあの頃のあの職場の日常的な雰囲気に浸って主体性を忘れてしまったせいだったのでしょうか。それとも、好きでもなかったあの職場さえも失ってしまい、再び急激な資本化でめちゃくちゃになったロシアに追い出されたら、家族もばらばらにされるかもしれないといった原初的な恐怖を感じたかもしれません。理由は複合的だったはすですが、結果はとにかく惨めなものでした。それからというもの、私はその体験をしきりに思い浮かべるようになり、その度に自分の卑怯さに対する自己嫌悪に陥ったりしました。「丸く」振舞ってばかりいたら、典型的な「心的外傷」を引き起こすのです。 実際、私の受けた被害(?)は、どうにかして非正規から正規教員になるためには個人的な頼まれ事から論文の代筆までの「あらゆること」をすべてこなさなければならない夥しい非正規教員の同僚たちに比べたら「何でもなかった」と思ってもいいくらいです。「雑巾扱い」を受けてきた彼らは果してどれだけ多くの悪夢にうなされながら生きていかなければならなかったでしょうか。「丸く穏やかに」することは彼らの心身をどれだけ破壊したでしょうか。

一つ誤解を避けるために言い添えたいことがあります。私を含む絶対多数の一般人は「英雄」ではありません。「矣」の字一つを落とされたといって飯の種であった新聞の寄稿を断固として断った丹斎申采浩(シン・チェホ、1880~1936)先生や、「石の家」(朝鮮総督府)の相手をするよりは配給を絶たれた方が良いとして栄養失調でゆっくりと最期を迎えた満海韓龍雲(ハン・ヨンウン、1879~1944)先生のような「角立った偉人」にはなれないということです。丹斎や満海のように非妥協的な「個人の反乱」を起こすためには、とりあえず餓死ぐらいは覚悟しなければなりませんが、それは平凡な衆生にできる事柄ではありません。私たちには丹斎や満海は師表ではあっても現実的なモデルには -残念ながら- なりにくいですね。しかし、「個人の反乱」は難しくとも、搾取者やその手下たちに「丸く穏やかに」ぺこぺこしたあげく、後から鬱憤やストレスが溜まり早くに健康を失い苦しみながら死んでゆくよりは、集団行動でも起こした方がましではないでしょうか。たとえば、職場単位で非正規労働者同士で「忠誠心競争を放棄しよう」と誓約し、管理人たちに徹底した公私の区分、私的な搾取の根絶などを要求することは、窮極的に一人一人の命をを守る方法になるのではないでしょうか。さらに何より大切なことは、次世代の教育です。「角立った石は鑿で打たれる」と教えるよりは、ある程度 角立った石でないと屏を築くのも容易ではなく、きれいにも見えません。すなわち、「状況の把握/対処能力」とともに剛直さ、そして人間としての尊厳を備えなければならないことを幼い時から教えることが望ましくはないでしょうか。誠に申し訳ない話ですが、窮極的に見れば、「丸く穏やかに生きる」ことは奴隷として死んでゆくことにすぎません。しかし、人間は生まれつき奴隷ではないため、こうして自分の尊厳を殺しながら生きることは、結局 不必要な苦痛の道にほかなりません。人間の尊厳と主体性を中心とする真の教育を通してこの苦痛を防ぐことが私たちの責務ではないでしょうか。

原文: 訳J.S