原文入力:2011-03-10午後08:10:18(1712字)
←パク・ミンヒ北京特派員
孔子は毛沢東を見下ろして謹厳な微笑を浮かべていた。
先週末、中国国家博物館の門前に立っている身の丈9.5mの巨大な孔子像の表情を改めて几帳面に覗き見た。去る1月に建てられた孔子像は向い側の天安門に掲げられた毛沢東の肖像画より大きい。文化大革命が盛だった1970年代初め 毛沢東は自身の後継者であったが背信者となり死んだ林彪と封建主義の代表 孔子を共に打倒しようという‘批林批孔運動’を行った。
ところが今や‘中華の世紀’の象徴として天安門広場の一画に立った孔子と向かい合うことになった毛は何を思っているだろうか。歴史は予測不許だ。
孔子像のそばを通り‘世界最大博物館’として新装した国家博物館に入った。来る17日までは‘復興の道’という展示だけを公開している。1840年、阿片戦争以後 中国が帝国主義列強らの貪欲にどれほど徹底して踏みにじられ、中国人がどれほど大きな苦痛にあったのか、太平天国、義和団、国民党の‘失敗’を経て共産党が最後の救援者となり中国をどのように塗炭から救い出し世界二大強国へと復興させたかを見せる数多くの写真や遺物が展示されている。
中国の近現代史は明らかに荘厳なドラマだ。中国という巨大な共同体が外部の侵略と内部の問題で凄惨に没落し数多くの人々の犠牲とため息、血と涙を通じて新しい道を求める道程は感動的だ。だが‘きらびやかな経済成長=中華民族の復興=偉大な共産党の統治’であることを強調する政治的目的に剥製された歴史は何かが抜け落ちたように退屈だった。博物館を出て20~30年後、この展示にはどんな姿の中国が加えられているのか気になった。愛国主義に寄り添い党が依然として全てを統制する中国であろうか、国民の権利と自由が大きくなった疎通する中国であろうか?
去る6日‘ジャスミン デモ’が予告された王府井はそのような疑問をより一層考えさせる巨大な舞台だった。集会場所に指定されたマクドナルドとKFC売場内の多くの‘お客さん’たちは、無線機のイヤホンを耳にはめ、ずっと周辺を見回す私服警察官たちだった。道路の‘清掃夫’たちも明らかにすっきりした身なりで、ゴミもない道路をほうきで掃き続けながら道行く人々が集まれないようにしていた。工事をしないのに道路のまん中を工事現場の目隠し幕で塞いだ。散水車は水清掃をする必要がないように見える道路をずっと動き回っていた。皆が演劇をしていた。示威はなかったが、権力の不安感だけが漲っていた。
金融危機以後、自信にあふれて見えた中国は今年に入ってから過度に不安に見える。インターネット上を飛び交う‘ジャスミン デモ’要求文にもかかわらず、現在の中国で中東式ジャスミン革命が起きる可能性はゼロに近いと言える。それなら中国は何を恐れているのだろうか?
‘成功の逆説’による改革の困難さだ。中国の超高速経済発展に隠された副作用とその解決方法は中国当局が誰よりもよく診断している。不動産暴騰により家を買えず働き口も求め難い若い世代の絶望、特権層の不正腐敗に対する怒り、強制撤去に焼身で抵抗する貧しい人々の絶叫を共産党が誰より深刻に認識している。こういう構造を変えるには政治改革を通じて権力を分散し、人民の力を強化しなければならないということを中国指導者も知ってはいるが、共産党、政府機構と深々と絡まっている強大な利益集団は自分たちの特権に手をつける改革に強く抵抗している。
進退両難の状況で中国指導部は‘安定’だけを叫んでいる。30年ごとに果敢な改革で危機を突破してきた中国共産党だが今回も改革に成功できるだろうか? 中国と世界の未来を変える問いが中国を覆っている。
20年後、天安門広場の主人公は誰だろうか? 毛であろうか、孔子であろうか、人民であろうか? minggu@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/467430.html 訳J.S