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[寄稿] ドイツでもう一度考えるチョン・テイル/チョ・ヒョジェ

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/443639.html

原文入力:2010-10-13午後08:18:20(1726字)

←チョ・ヒョジェ ドイツ ベルリン自由大招聘教授

長文の理論や分析より瞬間の印象、瞬間の観察がより深く記憶される時がある。労働専門家でない筆者が、ドイツで出会う労働者たちに対する印象がそうだ。職業に貴賎がないとしても、それは原則に過ぎず実際に暮らしの中でその原則が守られることがどれほど難しいのか、私たち皆が皮膚で感じている。ところが日常の次元で、ドイツ社会の平等性は確かに私たちより先んじている。

町内のスーパーマーケットの計算台に立ち順番を待っている時、油とホコリまみれになった作業服姿の労働者が一緒に立っている光景をよく見かける。その人の前後にとても高級な服装の婦人、そしてネクタイ スーツ姿の紳士が一緒に列に列んでいる。こういう光景は基本的に異常ではないが、私が言いたいのはその光景に何の違和感も感じられないという点だ。極端に対比される服装の人々、一目で互いに違う階級に属しているように見える人々が、本当に平然と自然な表情で互いに目礼をしたりもしながら自分の順番を待っている。その姿を異色的に眺める私がむしろおかしな人になる局面だ。

驚きはそれだけではない。その労働者は計算を済ませると、後のカウンター職員と暫し楽しい‘談笑’を交わす。すぐに後に派手な衣装を身に纏った貴婦人が黙黙と待っている間にだ。その労働者や、カウンター職員も、後に列んでいる婦人やそんなことに全く気を遣わない。この光景を見てズバリと何かを規定することは難しいが、職業的・階級的格差がある人々の間の社会的距離や異質意識が私たちの社会よりは確実に少ないということを感じることができる。

スーパーマーケットでの私の観察はここで終わらない。午後3時あるいは夜9時頃になれば、カウンター職員が交替させられる。少し前まで計算をしていたおばさん職員が、いつのまにかふだん着に着替えて買い物かごを持ち売り場で商品を選ぶ。そうして計算台に行き一般のお客さんと同じように丁重な接待を受けショッピングをして家へ帰る。特別なことではないながらも見ていて気持ちの良い光景に間違いない。

先日、家の前で歩道ブロックを敷いている労働者を見た。四角く削った手の平半分ほどの小さな石を歩道の路面に槌で打ち込んでいた。その広い歩道の全体にそのような形で石を一つ一つ、ドングリを植えるように歩道に敷いているのを見て驚かないわけにはいかなかった。作業にかかる時間も、そこに投入される誠意がなんとも言えないほど大きく見えた。労働者は石を一つ一つを用心深く槌で打ち込みながら労働自体に没頭しゆったりと楽しんでいるようだった。私は遠くに立って働く一人の人間が没頭し仕事に本当に打ち込んでいる光景をしばらく見つめていた。数日後、町内スーパーマーケットでその労働者が作業服姿で買い物をしに来ているのを見た。その人もやはり数多くのお客さんの間で全く区別されずに同じようにひとりのお客さんとして買い物をしてゆっくり計算をし終えていくのだった。

チョン・テイル烈士が夢見た社会は、このような形で人間化された社会でなかったかと想像してみる。仕事の性格により職業の特徴が違っても、すべての人間が文化的・社会的に差別を受けず平等に、自然に交われる社会ということだ。労働に心から楽しんで没頭でき、誰からも違和感を感じられない共同体に属した労働者たちの世の中、これは階級の問題や労働市場の問題次元を抜け出して私たちの社会の精神の問題、文化の問題でもある。

チョン・テイル烈士は四十年前にその点をすでに見抜いていたし、それが不可能に見える世の中に警鐘を鳴らすために自身をさびしく捧げた。彼の視線が峻烈ながらも、暖かいのはおそらく彼のこういう鋭い洞察力、烈士のイメージの後に立ちこめている素朴な人間愛のためではなかったかと考えてみる。

チョ・ヒョジェ ドイツ ベルリン自由大招聘教授

原文: 訳J.S