原文入力:2010-02-19午前10:21:31(1776字)
*チュノ:推奴,朝鮮時代に主人の家から逃げた奴婢を捜索し捕まえたり、主人の家から離れて暮らした外居奴婢から使役の代わりに上納を徴収すること。(訳注)
←チョ・グク ソウル大法学専門大学院教授
韓国放送の人気ドラマ<チュノ>を見て、2009年パク・チャンウク監督の映画<コウモリ>を思い出した。<チュノ>の登場人物は各自の大義,利益,怨恨のために、追い追われ殺し殺される。<コウモリ>でカトリック神父から吸血鬼に変わってしまった‘サンヒョン’は人間としての欲望を追求し‘テジュ’と禁じられた愛に陥るが、そのために苦痛を受ける。まるで2つの作品は他でもない21世紀韓国社会が追い追われる‘チュノ社会’,血を吸い吸われる‘吸血社会’と言っているようだ。あたかも魯迅が<狂人日記>で封建中国社会を‘食人社会’と痛烈に批判したように。
全国各地で‘最小運営収入保障制度’と結びつきながら進行される民間資本事業,途方もない規模になった国債発行は、国民の税金を吸いとる‘国家的吸血’だ。これとは別に社会のあちこちにも体系的・組織的チュノと吸血が成り立っている。力のある者は無力な者を、持てる者は持たざる者を、学んだ者は学べなかった者を、資本家は労働者を、大企業は下請け企業と町内商人を、正規職労働者は非正規職労働者を、首都圏は地方を、男性は女性を、韓国人全体は外国人労働者をチュノし吸血することが我が国社会の運営原理ではないだろうか。
このように私たちは食物連鎖の下で人をチュノしたり吸血して生きている。その上、チュノしながら感じる強者としての快感、吸血鬼となって得ることになる驚くべき能力に魅惑されているのかも知れない。いつかは自分も無惨にチュノされ吸血される可能性があることを忘れたままにだ。
権力の殺手となり勝者の隊列に上ろうとする‘ファン・チョルウン’,浅ましい腕章をはめ棒を振り回す‘オ・ポギョ’,そして抑圧される女として生きるよりは吸血鬼となり、自由を得て進んで暴圧者として君臨したい‘テジュ’等は全て私たちの内外に存在する。冷笑と怒りに満ちた‘イ・テギル’が世の中に向かって吐きだす言葉「調整とか政治とかすることが私たちと何の関係があるか?」はしばしば聞く話だ。反正または革命を通じて身分制をなくそうと命をかける‘ソン・テハ’,‘オブ・ポギ’,‘チョ・ブギ’の道、または吸血の拡大再生産を阻むために自身と恋人を亡きものとしようとする‘サンヒョン’の道は厳しく遠く見える。時間と空間を問わず、現世での人生自体がチュノと吸血の循環と反復から抜け出すことができないのかも知れない。キム・スンヒ詩人が1930年代の詩人 李霜の詩を借りて語ったように、私たち皆は当初からお互いを絞り取る‘人蟻’なのかも知れない。
しかし、悲観したりあきらめるはやめよう。‘ソルファ’の言葉通り、強いフリをすることもやめよう。非情で生臭いチュノの市場通りにはたびたび挫折し妥協して屈服しながらも、しつこく持ちこたえ風刺して抵抗する人々、消すことのできない奴婢の入れ墨を持っても互いに肩を寄せ合い新しい夢を見る人々がいるではないか。血まみれの阿修羅場でも悩み煩悩しながら生きた人間の血は吸うまいと努める‘人間的’な吸血鬼,‘サンヒョン’がいるではないか。愛は "残酷な混乱" (Ulirich Beck)であっても、どうにもできない情炎で叶わぬ愛に陥る男女主人公たちの姿は弱々しい。生の最後の瞬間‘テジュ’はどうして‘サンヒョン’の靴を履いたのだろうか。こういう人々の苦痛,夢,闘争,愛が積もりに積もる時、世の中に血と鉄の臭いより肉と乳の匂いを濃くする方法ではなかったか。
<コウモリ>の結末は悲劇であったし、歴史的事実を考慮する時<チュノ>の結末は悲劇にならざるをえないだろう。しかし、このような悲劇は私たちに新しい省察,連帯,挑戦の機会を与えるために用意されたことであろうと信じる。
チョグク ソウル大法学専門大学院教授
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/405452.html 訳J.S