原文入力:2012/09/14 21:00(7120字)
"家事をたくさんして罪ほろぼしをしています"
←カフェでインタビューを始める前、ソウル、中区(チュング)、巡和洞(スノァドン)の塩川橋交差点でポーズを取ったパク・ノジャ教授。 彼はいかなる私的な質問にも公的な返答に切り替える驚くべき能力を持った人だった。 カン・ジェフン先任記者 khan@hani.co.kr
9月初め、国際シンポジウムに参加するためしばし帰国したパク・ノジャ教授と苦労の末に約束を取りつけ、彼の文に断片的に登場する話を集めて質問紙を準備したが、彼の口から個人史を聞くことは容易ではありませんでした。 うわさ通り彼はどんな私的な質問にも公的な返答に切り替える驚くべき能力を持った人でした。 ポグロム(pogrom, ユダヤ人迫害)で苦労した年長の人たちの苦痛に満ちた人生を尋ねれば、20世紀初期ユダヤ系社会主義者の歴史と分派に関する講義が続くという形でした。 「知識人が公共の利益と関係なく個人の話をならべ立てるのはからだを売る道化師」というのが彼の信念でした。 それでも対話は愉快で有益なものでした。 高いトーンの声にのせられた驚くほど豊富な彼の知識ゆえでした。 あらかじめ準備した軽い質問は最初から使う余裕がありませんでした。 メニューの‘アメリカーノ’を見るやいなや、ユ・シミン氏に対する思いが続々と語られました。
"ユ・シミン氏は好きになれません。 人間がしてはならない妥協をしましたね。 避けようの無い創氏改名までは理解できても、学徒兵になれとの講演は容赦できないようにです。 ユ・シミンはイラク派兵延長に賛成することによって反民衆的暴力と関連し、人間としてやってはならない事をしたからです。"
正規職になるためにノルウェーに行きました
ロシア・韓国の時間講師たちは
今でも生計が困難なのに自分だけが
余裕を持って暮らしていることが申し訳ありません
同僚たちは4時には退勤します
夜遅くまで仕事をする私に
同僚たちは尋ねたりしました
"いつ離婚するのか、なぜ労働基準法に違反するのか"
ユ・シミンとコン・ジヨンを見る視角
-パク・ノジャが左派ならば、ユ・シミンはリベラルということになるが、左派とリベラルの本質的な差異は何ですか?
"左派は原則上、資本主義を受容できません。資本主義よりより良い体制を指向します。 しかしリベラルは資本主義を受け入れます。"
-コン・ジヨン先生のように労働者の苦痛に共感して助けようとする方々がいるでしょう。 そうした方々までを冷たい目で眺めなければなりませんか?
"コン・ジヨン作家は社会運動に肯定的に寄与する部分があって、それは当然高く評価しなければなりません。 問題は人権、民主主義などを前面に掲げて資本主義の本質を隠す惑世誣民の論理にあります。 リベラルは寛容、多様性、参与政治、多文化社会のような言葉を好んで使います。 全て良い話ですが、その中には‘財閥の生産手段私有については触れるな、社会の根本的な問題にも触れるな’という考えが含まれています。 本質を曇らせるリベラルのプロパガンダでしょう。 そのような意味の惑世誣民が問題です。 古臭いセヌリ党りより訴える力があるリベラルがさらに危険だということでしょう。"
-盧武鉉政府に対しても常に批判的でした?
"労働者の立場から見れば盧武鉉、李明博、朴槿恵の間に大きな違いはありませんから。 盧大統領には労働者に対する悪質的弾圧、派兵犯罪、FTA,平沢(ピョンテク)米軍基地など多くの問題がありました。 強硬鎮圧を容認して2人の農民を死なせたことは一種の間接殺人でした。"
-そのような考えを持つパク・ノジャにとって今回の大統領選挙はどんな意味がありますか?
"それがもっとも恐ろしい質問ですね。今回の大統領選挙に民衆候補が現れて、どれくらい善戦するかが私の関心事です。 マルクスが‘馬小屋のようなブルジョア国会を我々の演壇として使おう’と話したように、この選挙で話す機会をつかむことが重要です。 その演壇で‘財閥企業が労働者と社会の所有にならなければならない、株主の私有権を没収しなければならない、徴兵制を募兵制に変えなければならない、南北共存のために軍隊を減らさなければならない、自営業者やアルバイトを保護する破格的な措置を取らなければならない’と遠慮なく語らなければなりませんね。"
-ややもすると保守の執権延長を助ける結果を産みはしないでしょうか?
"朴槿恵の世界観が極度に国家主義的なので、左派知識人を弾圧する公安狂風が心配になることはあります。 朴槿恵になってはなりません。 しかし労働者は労働者の候補を支持しなければなりません。 次悪よりは善が先ですからね"
-オスロ大学での教授生活は如何ですか? 研究業績に追われる人生でしょうか?
"ノルウェーは偉大な超一流国家 大韓民国ほど先進化されていないのではないでしょうか(笑い)。 同僚たちは4時になれば退勤します。 夜遅くまで仕事をする私に同僚らは2種類の質問をしました。 いつ離婚するのか、なぜ労働基準法に違反するのか?(笑い) 強制から愛が生まれないように、研究も職業的な関心を持って自分が好きでしなければなりません。 国家や学校が無理にさせる研究は売春と同じです。 韓国では米国の権威ある雑誌に論文が載せられれば数千万ウォンずつくれたりするんですって? 精神分裂です。 自分の魂をそのようにして売る教授は売春より百倍千倍も悪いと言えます。"
1973年ソ連レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)で変電機の設計士である父親と微生物学の教授である母親の間に生まれたパク・ノジャはサンクトペテルブルク大極東史学科を卒業して1996年にモスクワ大から博士学位を受けました。 彼の実家は帝政ロシア時期に迫害と虐殺を経験し、革命以後にはじめて移住と高等教育の機会を得て、1930年代にレニングラードに定着したユダヤ人一家です。 ウクライナ系で早くからボルシェビキ支持者になった親ロシア社会民主労働党(RSDRP)指向の実家は、1905年虐殺の時に命がけでユダヤ人を匿ったりもしました。 民族を打破しようというソ連初期の国際主義に忠実だった母方の祖父はユダヤ系の祖母と結婚し母親を産みました。 母系を重視するユダヤの伝統に従えば母親もユダヤ人ではないかと尋ねると、彼は「半分はそうです。ところでそれに何の意味がありますか」と反問しました。 国際主義者らしい態度でした。 幼い時期にユダヤ人とからかわれた経験を尋ねました。 私的な質問でしたが返答はやはり公的な内容に変わりました。
「少数者がどこででも体験することでしょう。 民衆の中に広がった反ユダヤ主義偏見を社会主義も完全には洗い落とせなかったのです。 それでも公式的イデオロギーは‘万国の労働者 団結せよ’だったため、直接的な暴力に多く露出するようなことはありませんでした。 共産主義社会は暴力に敏感です。 調和の中で同志愛を作らなければならないので、集団の中では暴力が起きないよう青年共産党組織がよく統制していましたよ。」
シャランスキーとチャン・ジュナの悲劇、比較できますか
-秘密警察の統制下の暴力が日常化された社会ではありませんでしたか?
"1930年代スターリンの粛清時はそうでした。 私が育った時は全く違います。 私たちの町の警察は武器も持って歩きませんでした。 警察が武器を持つようになったのは亡国(彼はソ連解体をこのように表現しました)以後です。 ゴルバチョフ執権初期に民主主義をするとして良心犯を釈放しましたがその数は200人でした。 良心的兵役拒否者、不法出国を試みた人々、過激民族主義者を全て合わせてもその程度でした。"
-イスラエルに移住して長官まで務めたナタン シャランスキーのような人の自叙伝を見れば、ソ連をとてつもなくおぞましい社会と描写しましたよね? サハロフ博士の場合もそうでしたし。
"サハロフが受けた恐ろしい弾圧といったところで、居住地移転命令でモスクワを離れ6年過ごしたことですが、都市の中で歩き回ることは自由でした。 過激なユダヤ民族主義者であったシャランスキーは13年の刑を受けましたが拷問されたことはありません。 チャン・ジュナやキム・ナムジュが加えられた疑問死、拷問、弾圧を考えてみて下さい。 比較になりますか? 少なくとも末期のソ連は韓国のファッショ政権のように拷問と殺人で知識人集団を統治したりはしませんでした。"
-90年代初期ロシアの途方もない経済難の中で韓-ロシア通翻訳、旅行ガイドなど多様な仕事をしたと聞きました。
"ロシアの行商人を連れて何度も通って南大門(ナムデムン)は目を瞑っても歩き回れます(笑い)。 名誉博士学位を受けにロシアに来た数多くの総長・教授の通訳も引き受けましたよ。 腐り果てたある地方私学財団の総長が学術論文一つなしで修士論文だけを根拠に名誉博士学位を受け取る姿も見ました。 私よりは高麗人通訳が多くの苦労をしましたよ。 女を呼んでくれと言って、ぞんざいな言葉と、セクハラをして、犬や豚のような扱いを受けました。 白人には気をつかう一方で、貧しい同族には極端な蔑視と差別をする‘GNP人種主義’でした。 高麗人の後輩の中には‘観光客案内を続けるうちに韓国文化までが嫌いになって韓国学を止めたくなりそうだ’としてガイド役を中断した友人もいましたよ。 亡国以後のロシアは正常な社会作動を止めた状態だったんです。"
-亡国の痛みを実感したんですね?
"共産政権が統制したのだが、知識人を食べさせ知識インフラを増やし、人文学発展のための基盤は作りました。 亡国以後、一番最初に崩れたのが図書館です。 亡国以前には大学図書館にさえ行けばいつでも<ニューヨーク タイムズ>、<ワシントン タイムズ>、外国科学雑誌を見ることができましたよ。 そういうのを読まなければ西側に遅れをとると考えたからです。 亡国以後の新しい資本主義政権は科学と人文学に何の関心もなかったし、数多くの科学、人文学労働者が飢えて死にました。 それを放置した政権は殺人者でした。"
-その時期にロシアに留学来た奥様に会われたでしょう? 両家の結婚への反対はありませんでしたか?
"エリツィンの自由化で物価が百倍ぐらい暴騰してしまって奨学金ではパン数ヶも買えなかった時期です。 その時期の数年はバイトをした記憶しかありません。 音楽院で通訳をしましたが韓国人留学生がソ連人をひどく蔑視していました。 個人レッスンを受けながらも‘あの教授には10ドル以上与えるな。 クセになる’と貧しい人を他者化して差別しました。 妻はソ連の人を蔑視することはありませんでした。 亡国以後、父親が失職し母親は年金生活者だったために我が家は結婚に反対する余力もありませんでした。 飢えて死ぬことが心配だったから(笑い)。妻側は初めはちょっと反対しましたがその後は暖かく迎えてくださいました。"
97年から3年間、慶煕(キョンヒ)大で非正規職教授としてロシア語を教えたパク・ノジャは週末になれば外国人労働者に韓国史を講義しました。 日曜日を一緒に過ごせないという妻の不満が多かったのですが、インド・ネパールから来た労働者たちと新羅仏国土思想を共に討論できた「とてもおもしろい」ボランティアでした。 99年にはロバート ハリー、イ・ハンウとともに<ハンギョレ>に‘ソウル虫眼鏡’というタイトルで文を書き始めました。 他の筆者たちが韓国の食べ物や文化を扱った軽い文を主に書いたのに対して、パク・ノジャは初めから朴正熙独裁、ベトナム派兵、良心的兵役拒否などの重い主題を取り上げました。 論客パク・ノジャの華麗な登場でした。
"韓国が特に悪いという話をしようとしたわけではなく、人間の正常な暮らしを不可能にさせる資本主義の問題を指摘したかったのです。 私がソ連で軍事教育の時間に仏教経典を読んでいて追い出されたことがあります。 直ちに軍隊に連れて行かれたりはしなくて博士学位を受けて兵役免除を受けました。 ベトナム派兵に関する文を書く時は母親の友人を思いました。母親ととても親しかったベトナム留学生が後日ホーチミン市の大型病院の院長になりましたが、80年代まで手紙をやりとりしました。 その方が送ってくれたロシア語に訳されたベトナムの古典を読みながら育ったのでベトナム人を兄弟のように考えていました。 良心的兵役拒否も、ベトナムも、他人の問題ではありませんでした。"
-批判的文を書きながら困難はありませんでしたか?
"ワールドカップを支配層のトリックだと<オーマイニュース>で批判した時は、コメントの半分ぐらいが殺してやるという話でした。 韓国では日常茶飯の言葉でしょう(笑い)。 言語暴力や切られることは恐ろしくありません。 拷問やテロのような物理的暴力は恐ろしいです。"
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私の話がそれほど原理主義に聞こえますか?
-2000年にノルウェーを選択した理由は?
"何よりも正規職になりたかったのです。 国民医療保険と年金がある、ソ連と似た社民主義社会で暮したいと思いました。"
-2001年に出版した<あなた方の大韓民国>の億台に上る印税を‘アジアの友人’という団体に寄付したと聞きました。
"印税がどれくらいになるかはよく分かりません。 ノルウェーで受け取る月給があって、正規職であるので暮らすのには支障がないでしょう。 移民者差別に抵抗する団体と連帯したかったのです。 著作権は原則的になくなればいいですね。"
-多額の金銭を寄付して家族に申し訳ないと思いませんか?
"妻には大いに申し訳ないと思っています。 それでもこの頃は家内労働をたくさんして罪ほろぼしをしています(笑い)。 上の子が2002年生まれ、二番目が2011年生まれですが、非正規職である時は子供を産もうと思えませんでした。 いつ追い出されるかも分かりませんから。 非婚と無子が非正規職の唯一の武器じゃないですか。 非正規職から脱出するには全力を尽くさなければならないのに赤ん坊がいれば不可能です。 非正規職の量産が人間の自然だということを遮断して人口の再生産を阻むのです。 二番目が生まれてから私は育児労働を熱心にしています。 以前は妻が永く一人で苦労しました。 私も罪人だと言うことも何ですが、知識人がなしうる最も大きな罪悪は家事をせずに勉強ばかりしていることです。"(笑い)
-韓国とノルウェーを行き来して多くの文を書いていますが、その力の源泉は何ですか?
"申し訳ないという思いでしょう。 私が亡国後にロシアを去ったじゃないですか? ロシアに残った同僚と後輩は時間講師しても生計は立たないので途方もない苦労をしています。 韓国で非正規職生活を共にした方々も同じです。 自分一人が余裕ある暮らしをしていることが申し訳ありません。"
-韓国に戻る計画は?
"子供たちのために容易ではありません。 ノルウェーで育った上の子供には韓国の不平等と人権侵害がその都度大きな衝撃です。 子供は私に韓国での活動をやめて欲しいと言ったりもします。 ‘韓国社会の日常的保守性を見れば社会主義に進むことは不可能だ、時間を浪費せずにノルウェーの赤色党活動でも熱心にしなさい’と言うのです。"
-反対側の話も聞く機会がありますか?
"韓国に来るたびにタクシー運転手たちと話します。 一部は保守的な方々ですが、私が韓国語を話すと珍しそうにしていると‘進歩新党をどう思うか?’とこそこそと尋ねます。 ほとんどが党の名前も知りません。(笑い) それでも労働する方々と話すことはいつも楽しいです。"
インタビューを終えてパク教授は心配そうな顔で「私の話がそれほど原理主義に聞こえますか?」と尋ねました。 進歩新党の人々はいつも正しい話をしますが、時には現実と垣根を作って批判することだけに長けた知識人に見える時もあります。 好きな人々が最も多く集まった党ですが私が迷うことなく票を与えられない理由です。 私のそのような憂慮に対してパク教授は「知識人の人生の唯一の基準は死が差し迫り自分の人生を振り返って恥ずかしくないようにすること」とし「30年代末の朝鮮知識人を考えてみなさい」と言いました。 ドキッとしました。 原理主義的にしろ そうでないにしろ、社会主義国家で少数者として生まれて一生を弱者に対する暖かい感受性と冷徹な理性を磨いてきたパク・ノジャの存在は‘GNP人種主義’に陥って外国人と少数者差別が日常化された私たちの社会の健康性を点検するリトマス試験紙です。 彼の息子のユルヒには申し訳ないけれど、彼がもっと長時間私たちのそばにいて欲しいという願いを抱いたインタビューでした。
録音・進行 チェ・ウリ記者 ecowoori@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/551789.html 訳J.S