原文入力:2012/08//20 20:59(1955字)
←チョン・ソック論説委員室長
筆者は朴槿恵議員を躊躇なく‘独裁者の娘’と呼ぶ。 事実‘独裁者の娘’らしく歴史性がそっくり含まれていて、朴議員を含蓄的に表現できる別の呼称も探し難い。
とは言え必ずしも朴議員を非難する目的でこのような用語を使うのではない。 彼女が‘独裁者の娘’なので大統領になってはならないと主張するためにでもない。 このような用語を使うのは彼女の政治世界を立体的に理解して、彼女の政治的浮上が韓国政治史で持つ意味が何であり、彼女がもし大統領になった時にはどんな未来が展開するのかを推論する分析枠として‘独裁者の娘’という呼称ほどに適切な用語がないためだ。
‘独裁者の娘’という用語は朴槿恵の政治世界が彼の父親である朴正熙前大統領と切り離そうとしても切れない関係であることを雄弁に語る。 朴議員が政治に入門することになった動機を調べれば、それはより一層明確になる。 外国為替危機が真っ最中だった1997年12月11日、彼女は当時イ・フェチャン ハンナラ党大統領候補選対委顧問として政治に第一歩を踏みいれた。 彼女は「60~70年代に国民が血の汗を流して起こした国が、今日のような難局に処したのを眺め父上を思い出し喉がつまる時が一回や二回ではない」として初めから父 朴正熙を挙論して政治を始めた。 「父の夢が福祉国家であった」という発言からは今回の大統領選挙の福祉公約も父の遺業を受け継ぐものだということが垣間見られる。 結局‘無念に死んでいった父親の栄光ある業績’を再現するために政治を始め、今も変わっていないということがわかる。
5・16クーデターに対する評価ではこのような認識がより一層目立つ。 彼女は去る7月16日、新聞放送編集者協会招請討論会で「父としてはやむをえず最善の選択をした」と評価した。 これは1989年5月19日、10・26朴正熙殺害事件後、初めて言論に登場し 「5・16は救国の革命だった」と話したことと大差ない。(<文化放送> ‘パク・ギョンジェの時事討論’) 特に5・16当時の疲弊した生活像と不安な安保状況を取り上げ5・16の不可避性を主張する論理構造は23年前も今も一寸も変わることがない。 これは彼女の歴史認識が父親 朴正熙の枠組みの中に閉じ込められていることを意味する。 紛うことなき‘独裁者の娘’だ。
それでも‘独裁者の娘’である彼女が最も有力な大統領選挙候補に浮上したことは吟味してみる必要がある。 これは朴正熙の独裁政治を批判する‘反独裁スローガン’が少なくとも現実政治ではほとんど効かなくなっていることを意味する。 実際に朴槿恵を‘独裁者の娘’といくら非難してみても、朴槿恵支持者が背を向けるわけもなく、野次馬も今の時代に連座制かと納得しないだろう。 ‘朴正熙ノスタルジー’が‘独裁者の娘’という否定的イメージを希薄にさせたこともあって、遠い過去である朴正熙独裁より現在の朴議員の政治的ビジョンがより大きな影響を及ぼしたかも知れない。 どうであれ選挙戦略上だけで見れば、民主陣営の‘独裁者の娘’レッテル貼りは朴槿恵を引きずり降ろして選挙で票を多く得るための手段としては効力を喪失した。
もし‘独裁者の娘’である朴議員が大勢論を維持して大統領に当選するならば、私たちの社会は‘朴正熙独裁18年’に対して事実上免罪符を上げる計算になるだろう. これはまた、朴正熙政権に根を置いた守旧・冷戦的な元祖保守既得権層が変身に成功し華麗に復活することを意味する。 たとえ朴槿恵の当選が‘独裁者の娘’に対する支持ではなく、彼女の優れた政治力とビジョンのためだとしても、このような解釈は大きく変わらないだろう。 朴議員が大統領になる瞬間、彼女の支持者は維新独裁に対する洗濯作業を本格化するためだ。
朴槿恵議員は昨日セヌリ党の大統領候補に確定したことによって、政治入門15年目にして大統領選挙に最も近接した政権与党の大統領候補に浮上した。 彼女は朴正熙の死後、汎保守政権の脈を引き継いだ全斗煥-盧泰愚-金泳三-李明博などとは異なり‘朴正熙英雄神話’に染まっている。 そのような彼女が大統領になるならば、私たちの社会の歴史認識と民主主義は一段階さらに退行が避けられないだろう。 12月19日、国民の選択が韓国政治史で重要な意味を持つもう一つの理由はここにある。
チョン・ソック論説委員室長 twin86@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/547913.html 訳J.S