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[朴露子ハンギョレブログより] 「あなたは本当に平和主義者なの?」

http://tux1.aftenposten.no/nyheter/uriks/kosovo/d74906.htm

原文入力:2012/07/06 00:45(3257字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 私と考え方の異なる人々と議論する際、しばしば受ける質問はこんなものです。「あなたが本当に平和主義者ならどうして赤軍や10月革命などの暴力闘争を肯定するのか。暴力闘争を肯定する以上、平和主義者でありうるのか。あなた本当に平和主義者なのか。」これはどうあれ重要な原則の問題なので、痛みがやや治まっている間に一度簡単にまとめてみたいと思います。

 平和主義には二つの側面があります。一つは情緒的、感性的な側面です。元々生物界で同類同士で殺しあうことはめったにないので、他人が死んだり苦しんだりするのを見たり思ったりするだけで苦痛に感じます。これはおそらく人間の内面の奥深いところに内在している生物的な本能の一つに違いないでしょう。そして人間には -ほかの動物と違い- 抽象的な思考、すなわち理性の能力が付与されているため、人間同士のみならず、「生命体」に範疇化されうるあらゆるものの死や苦しみを痛ましく思うのは当然のことかもしれません。このような本能を「生命への畏敬」と言います。ここでは誰が死んだのか、あるいは苦しんでいるのかは、さほど重要なことではありません。たとえば、1949~50年の間の中国における土地改革時期に数え切れないほどの人民裁判で大衆の前で死ななければならなかった「悪質地主」たちのことを、彼ら一人一人が受けたはずの苦しみについては誰でも一旦は痛ましく思うでしょう。ところで、まさにその瞬間にもう一つの次元が介入してきます。その「悪質地主」たちが農村共同体から異口同声に批判され呪われていたなら、すなわち彼らを簡単に殺すほどに彼らに対する道徳裁判が既に共同体内で行われたとすれば、果して彼らと彼らの先祖たちが代々どんな暴力を振るってきたのか、どんな経路で富を得たのかについて考えなければなりません。そしてこのような土豪劣紳たちが農村共同体に君臨している以上、果してその共同体で非暴力的な世界などありえたのかなど、自然に思いを巡らしてしまいます。これがまさに平和主義の理性的なレベルです。

 感性は「あらゆる」暴力に対する反発を内包するものの、理性は暴力が不要な社会を作る道を考えます。理性の声を聴こうとすれば、私たちは一つの事実を疑いなく確認できます。その時その時の建前や言い訳は何であれ、資本主義国家が存在する限り、最も無惨な形の軍事的な殺戮が続くことでしょう。これはただこの体制の本質の問題にすぎません。たとえば、豊かな資本主義国家の軍事的な「クラブ」であるNATOの軌跡を一度考えてみましょう。「ソ連の脅威」を阻むために、冷戦初期の1949年に作られたと言われるNATOは、ソ連が消えたからと言って解散したでしょうか。とんでもありません。セルビアやリビアを爆撃し、アフガンを既に10年余り不法占領するなど、一生懸命にグローバルな殺戮的「活動」をしでかし続けています。リビアやセルビアがドイツやアメリカを脅かしたと言ったら、まったく笑わせる話ですが、それが誰かによる「脅威」の問題ではないことにみなさんは既にお気付きのはずだろうと思います。ただ欧米圏の世界制覇力を誇示するためにも、新しいミサイルや爆弾を試そうとすれば、いかなる試験場より生きたセルビア人やリビア人たちが遥かに良い「丸太」として機能するということです。彼らの体から肉片が飛び散り、四肢が焼き殺されるまさにその瞬間、ロッキードマーティン社やゼネラルダイナミックス社の株価までが跳ね上がるので、多多益善というところでしょうか。さて、NATOの創立メンバーたちのリストを見ると、ベルギーやオランダからデンマーク、ノルウェー、アイスランドまで、最も「平和な」西欧、北欧の国々の名前がずらりと並んでいます。その「平和国家」たちの支配者たちの手にはアフガン人やセルビア人たちの血が付いていないとお思いでしょうか。まあ、韓国の人々はともかくとして、最早ノルウェーの人々でもノルウェーが犯罪的なセルビア爆撃に積極的に参加した事実を覚えている人は珍しくなりました。インターネットであの時ノルウェー空軍の「功労」を自ら祝う記事などは今もすべて検索可能であるにもかからわらずです()。

 理性的に考えれば、いくら韓国的な観点からは「楽土」のように見えるノルウェー式の資本主義であれ、この資本主義も戦犯的な性格を持っています。そうでない資本主義は、歴史的に存在したこともなければ、存在する可能性もゼロなのです。それでは、真の平和主義者は資本主義を少しでも肯定できるでしょうか。そして資本主義を肯定できなければ、資本主義に反対する闘争を、ひとまず資本主義国家らの引き起こしている殺戮とは異なる視線で見ることが自然ではないでしょうか。

 もちろん「反資本主義的」だからといってあらゆる暴力を受け入れるわけでは絶対にありません。いくら革命集団だからといっても、天使ではない人間である以上、暴力に慣れてしまい暴力的な手段を支配者でもない(何らかのきっかけで反対側に立つことになった)人民たちにまで働く誘惑に駆られる可能性もありますし、またその誘惑に負けてしまうかもしれません。1921年のレーニンとトロツキーによるクロンシュタット蜂起の鎮圧は、窮極的にまさにその範疇に入ると思います。そして革命が反動につながり、革命を経た社会が保守化していく中では、いくら反資本革命を経た国であっても、「通常の」国民国家のように地政学的な考慮に従い、対外的な暴力を振るう可能性は濃厚になります。その国の大きさが暴力の行使に見合ったものでありさえすればですね。ソ連の1956年のハンガリー革命の鎮圧や1968年のチェコスロバキアの変革運動に対する武装干渉、そして1979~1988年の不名誉なアフガン侵攻などはまさにこのような類に属します。まあ、旧ソ連やキューバ以外に私も最も好きな国は社会主義中国ですが、中国の1979年のベトナム侵攻もまったく同じ範疇に属するでしょう。当然ながら、革命が変質し保守化した後のこのような覇権主義的な物理力行使に対しては、いくら社会主義的な平和主義者だからといっても、当然反対しなければなりません。しかし、1917年以降の20世紀の社会主義的な実験はあくまでも「資本のない幸せな世界」を建設しようとする初めての試みにすぎないのです。あまりにも未熟で、試行錯誤が多く、問題も多く、結局革命の歪曲や保守化で終わった試みだったものの、これは初めての試みにすぎません。20世紀の革命家たちがやらかした間違いを、21世紀の革命家たちが繰り返さないためにも、反体制的な暴力を使うにしても、本当に「どうしても避けられない場合に限ら」れなければならないし、平和的な基調で進むように、平和主義者たちは努力しなければならないでしょう。

 革命的な暴力であれ反革命的な暴力であれ、あらゆる暴力は醜いものです。その理由や建前に関わらずにです。感性的には、当然あらゆる暴力を痛々しく感じざるを得ません。ところが、理性的には、暴力的でしかありえないこの体制の維持・拡大再生産のための暴力と、この体制の転覆と平和が可能になる社会の建設のための暴力を少なくとも区別することは大切だと思います。後者の暴力は構わないと言っているわけではなく、後者の目的のためには平和的な方法によってでも平和主義者は自分の体を張る価値はあるということです。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/50382 訳J.S