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[編集局から] アン・チョルス、政治をコピーする/ペク・キチョル

原文入力:2012/03/11 20:25(1889字)

←ペク・キチョル政治部長

アン・チョルスの歩みが斬新に見える理由は
政界の過去回帰的形態のためだ
公認決定過程が親朴・親盧に縛られて

 アン・チョルス ソウル大教授が先日、北脱出者の座込み場を訪ねたのは本当に彼らしい歩みだ。 保守のイシューだが、進歩陣営にも共感を広げている北脱出者問題に触れたのは絶妙と言える。 実際の理由がどうであろうがアン・チョルス式政治動向と見るほかはない。 政界が公認で泥仕合をしている渦中の歩みであるため一層斬新に見える。

 忘れた頃には登場するアン・チョルスを見る度に、彼が本当に政治をするのかやめるのが一層気がかりだ。 外国映画<愛をコピーする(邦題:トスカーナの贋作) – Copie conforme>の最後の場面で男性主人公はトイレの鏡の前に立っている。 隣室で彼を待つ女性と新しく愛を始めるのか、あるいはホテルの部屋を出て行き駅に向かうかを決めなければならない。 時間を知らせる柱時計の音とともに映画は気がかりなことを残したままで終わる。‘政治をコピーする’という映画があるならば、アン・チョルスは今その鏡の前に立っている。

 アン・チョルスの歩みが斬新に見える理由は、政界の過去回帰的形態のためだ。 与野党の公認過程を見れば親朴・親盧という過去のフレームに縛られている。 今年の総選挙・大統領選挙が時代的転換期だと言うが、現実の公認過程は時代をしばらく遡った。 99%の時代、経済民主化の時代にふさわしい人物は見出しがたい。 朴槿恵というオーナーがいるセヌリ党が比較的秩序立てて内容のない公認をきれいに包装したとすれば、民主党は‘初歩運転’指導部らしく散漫にこんがらかってごちゃまぜになった。

←アン・チョルス ソウル大融合科学技術大学院長. シン・ソヨン記者 viator@hani.co.kr

 民主党公認を見ながら、いわゆる‘親盧’、‘386’が韓国政治の未来を導く核心キーワードになれるのか懐疑を持った。 一人一人の政治的資質や献身性の問題ではなく、2013年新体制を導くには過去の歳月の重さがとても手にあまる。 親朴・親盧のフレームでは現在の韓国社会を入れるには力不足だ。ムン・ジェイン理事長が親盧を前面に掲げて野党圏の大統領候補になったとは思わない。 彼の誠実さ、率直さ、既成政治家たちには見られない淡泊さ、こういうものが国民にアピールしたのだ。 親盧でも386でもプラスアルファが必要だ。

 アン・チョルスの最近の歩みを見れば、彼が大統領選挙に出ると大言壮語することはできないが、それでも特有の歩みをやめそうでもない。 昨年末以後、特別な政治勢力化の動きがないという点で、外見上は権力意志が弱まっていると見られる。 財団スタートや北脱出者座込み場訪問を見ればそれでも完全に社会的歩みをたたむようでもない。 彼が意味のある社会的活動と本格的な大統領選挙の歩みの間で迷っていると言えば過ぎた憶測であろうか。

 親朴・親盧・386が過去回帰的コードならば、アン・チョルスは今の時代精神を反映する未来指向的コードだ。 総選挙が1ヶ月余り先に迫った今、苦痛を受ける私たちの時代の若者たちに希望を与えるためにもアン・チョルスに代表される時代精神の火種を生かさなければならない。 それが彼らに対する礼儀だ。 立派な働き口の一つも作れない既成世代の義務でもある。 アン・チョルス自身が自らに与えられた天命をどのように遂行するべきかは分からない。 今までそうしてきたように自分だけの方法を見つけなければならないだろう。 親盧と386もやはりこの時代的課題に額を突き合わせて欲しい。

 映画<愛をコピーする>で中年の男女は半日の短い出会いの中で、愛の始まりと終わりを圧縮的に‘コピー’したように見える。 その後、女性は現実の中の愛を望んだし、男は鏡の前に立った。 切ない愛もいつかは寂しい結末を結んだりする。 政治も同じで華麗な終わりだけがあるわけではない。 アン・チョルス式政治をコピーするならば、その終わりは何だろうか。 愛もそうだが、政治も時には不可抗力的な運命のように迫って来る。 愛を始めるだろうか、やめるだろうか。

ペク・キチョル政治部長 kcbaek@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/522930.html 訳J.S