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出馬の弁:政治と進歩政党に対する断想など

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/42184

原文入力: 2012/03/08 23:25(2965字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 数日前、私が進歩新党の比例代表に今度の総選で出馬するということが知られてから、日常の中で少なからぬ変化を体感してきました。メディアとのインタビューの一部などを家でする場合が生じ、ほとんど20年間「書くこと」に夢中で家事などを疎かにしてきた家庭的でない夫に我慢してきた家内から早速不平の声が出ました。「書くこと」を主軸にしてきた家庭的でない生活態度に対するすまなさもあるので、その不平までは理解できるものの、私に理解しにくいのは(国内の)学界の一部の仲間たちからのやや冷笑的な反応です。「お前も遂に本業を蹴飛ばして政治家になるの?ポリフェッサーの列が増えるね。」マルクスから姜萬吉(カン・マンギル、1933年生まれ)先生や梶村秀樹先生まで、「本業」と(進歩的な)「政治的実践」を立派に兼業してきた先輩たちの名前を並べれば、きりがありませんが、ここで問題になるのは、私個人の立場の「釈明」ではありません。「政治」、そしていわゆる「知識人」の政治との関係に対する根本的な考察が必要だと思います。

 政治とは、必ずしも「政党」や「国会」にのみあるのではありません。政治は、社会における権力関係の総称を意味します。あらゆる資本主義的な社会が権力関係で成り立つ秩序でできている以上、その中において「政治」から自由なことは何もありません。一部の国内の同僚たちが「孤高な真理の探求」の理想を上げて私の「出馬行為」を嘲笑うことはできますが、(国内の学位や中国、日本などといった周辺国家の大学で取った学位でない)アメリカの博士号所持者が最優先に国内で「教授」に採用され、その後は英語論文を生産し欧米の学界に流布させることを最優先の義務にしていることは、果たして「政治」でなくして何でしょうか。この行為の根底には、国内の学界がアメリカ(ないし欧米)の学界に従属しなければならないという国内の支配層の政治的な判断が存しているのです。またこのような政治的な判断により「象牙の塔」から排除される、充分に自分自身をアメリカ化しきれなかった(しなかった)研究者たちは「真理の探求」の代りに最低生活費にも及ばない、6か月後が分からない講義労働でその日を凌いでいかなければなりません。このような差別こそが国内の(保守)政治の本質ではありませんか。孤高なふりをするのは個人の自由ですが、学界における(特に高級の)構成員の一挙手一投足こそは極めて政治的でしかありません。本人がそこまで理解しうるほどの省察力を持っているかどうかはおのずと別の問題でしょう。

 海外の学界とて本格的な違いはまったくありません。韓国学を専攻する私はヨーロッパの大学で仕事を見つけることができた一方で、ベトナム学を専攻する同僚たちはヨーロッパで職を見つけることは遥かに難しいでしょう。ベトナムが朝鮮よりその歴史や文化が面白くないからではなく、ベトナム戦争の際にアメリカ帝国に兵力支援(?)と後方支援などを高く売った韓国が成り金になり、今はお金をばら撒いて外国に教授職を新設させ、大衆文化を海外に輸出することにより学生の誘致に資するほどの「力」を持っている一方、戦場になってしまったベトナムが今はやむを得ず韓国などの海外の企業らの経済的な「準植民地」になり、海外のベトナム学を「振興」するほどの余力を持っていないからです。これが「政治」でなくして何でしょうか。モスクワ国立大の博士号を持っている私が今こぢんまりした研究室で楽にブログを書いている一方で、(ノルウェー政府がなかなか認めようとしない)バグダッド大やテヘラン大、モガディシュ大出身たちはこの大学の廊下を掃除しなければならないのも「政治」でなくして何でしょうか。私たちが望もうが望むまいが、私たちの生活すべてが政治によって規定されます。排除と差別の構造において、私たちは被害者や加害者、既得権層や疎外層に規定され、その規定により思考と生活のパターンを作っていきます。結局問題は、加害者/既得権層優先の従来の秩序に対立している被害者たちと連帯することができるかどうかということです。そのように連帯することができれば既得権層の構成員になった罪過に対して少しでも許されることを期待できるものの、それができなければ、結局は本人が望もうが望むまいが多数を被害者にする旧秩序の番人になってしまいます。いくら孤高なふりをしてもです。

 進歩新党とは何でしょうか。いくつかの「議席」を有すべき(体制内の)「政党」である前に、一次的にはこの秩序を壊すか根本的に改めなければこの池では魚が生きられないということを全身全霊で認識した「考える被害大衆」たちの集まりです。彼らの中には江汀(カンジョン)村を守ろうとして連行され苦衷を強いられた人々も、時間と私費を投じて双竜自動車リストラ被害者たちと連帯して闘争する人々も、希望のバスに乗ったことで今も警察と検察の体系的ないじめに苦しめられている人々もいれば、ただ創造的な労働をしながら恋愛でもしたくても現体制下では恋愛も創造的な生活もあきらめ、就職戦線で繰り返し格闘を強いられている青年たちもいます。それぞれ抵抗に入門した動機も違い考え方も少しずつ違うし、体制の変革に対する意識の程度にも大きな差はあるものの、最大の共通点はこれです。利潤の追求に狂った極少数が絶対多数を無理な超長期間労働や世界最高の労災率に苦しみ雇用不安に晒され家計債務のピラミッドに苛まれる牛馬にしているこの精神病院を、みんなが平等で仲良く暮らす美しい村に改造しようとしている点です。その具体的な方法をめぐってそれぞれ相違はあっても、このような志向を共有するかぎり、我々は歴史を変える「主体」として生まれ変わる可能性はあります。歴史の論理を理解しようとする「知識人」なら、社会を今日のような惨めな状態から多数の平和で幸せな連帯が可能な、より良い状態に導く「変革の主体」の側に立つことは自然ではないでしょうか。それがむしろ道徳的な義務に当たるのではないでしょうか。

 私が国会議員になれるかどうかは、私の関心事ではまったくありません。私に希望があるとすれば、進歩新党の他の党員たちとともに、労働搾取の度合いを高め続け、軍事費や軍事基地の数を増やし続け、自殺率と零細自営業者たちの破産率を超高速成長させるだけのこの地獄のような大韓民国を、私的王国のような独裁国家型の大企業と非人間的な徴兵制の軍隊、非正規労働者と世界で最も速く値上がりする大学授業料、企業のように営利のみを追い求める病院や受験恐怖に苦しむ子供たちのいない、もう少し幸せな所に作り変えていきたいと思います。一つの「演壇」として国会も利用価値はありますが、この闘争の中心は結局職場と街頭、広場、そして世論を形成するインターネット空間になると確信する次第です。

原文: 訳J.S