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[朴露子 コラム] 社会的他殺の日常性

原文入力:2012/02/21 19:28(1904字)

朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 現実社会主義を批判しようとする人々が常に集中攻撃しているのは、農業集団化や粛清などのような大規模な国家暴力である。もちろんこの部分でスターリン主義を庇うことはできない。革命的な熱気が冷めて政界が次第に保守化する中で超高速工業化というものすごい課題を抱えた国家は世界で類まれな総動員体制を構築したのであり、いかなる総動員体制も暴力なしには稼動できない。もちろん、スターリン死亡当時のソ連総人口における「収容所群島」の人口の割合(約1%)は、今日のアメリカにおける囚人の割合(約0.7%)よりやや高めではあっても、それは言い訳にはなりえない。資本主義的な野蛮さを根絶しようとした体制が、結局は最も野蛮な資本主義国らのように監獄を下層民たちの「馴致」と労働搾取のために利用したとすれば、社会主義的なモットーとこの体制の本質が齟齬していたことを認めざるをえない。

 しかし、現実社会主義の国々における国家暴力を語るためには、一つの重要な点を逃してはならない。北朝鮮のように軍事的な対立が常に尖鋭化した一部の例を除けば、多くの現実社会主義の国々はある程度工業化に成功した後は、民衆の不満を認識し国家暴力の濫用を抑えた。たとえば、ソ連の場合、1987年のペレストロイカ過程ですべての政治犯たちが釈放された際、釈放対象者たちは2億7000万の人口の国で約280人にすぎなかった。すなわち、ソ連は崩壊する前に対内的に反対者への物理的な国家暴力の使用を最小化していた。

 現実社会主義の国家暴力は社会の成熟とともに減ったのに対し、資本主義社会はどんなに時間が経っても少しも暴力は減らない。戦争という形での対外的な国家暴力はむかしのままなのに、むしろそれに対する反対は次第に減りつつある模様だ。体制を転覆させてしまうかに見えた1960年代後半~1970年代初めのベトナム侵略反対デモと、その存在感のほとんど感じられない欧米における今日のアフガン戦争反対運動とは、果して比べものになりうるか。韓国もアフガンに派兵した国の一つだが、進歩系の中ですら侵略幇助行為であるアフガン派兵はほとんど関心の外に置かれている。ところが、資本主義世界における体制の暴力性とは、必ずしも国家の積極的な暴力に限られていない。国家の直接の暴力よりも、資本と国家が消極的に遺棄した(またはその本質上はじめから果たすはずもない)社会的な責任は、さらに多くの人々を間接的に殺すことができるのである。

 資本主義世界において人間とは剰余価値を受け取る道具にすぎない。「役に立つ」道具であれば国家は従来のイデオロギーを書き直してまで配慮するふりをする。120万人の国内の外国系人口は農村人口の再生産や中小企業の経済性維持のために必要不可欠だったため、2000年代初めに「単一民族」のような古い理念が政府により廃棄され、少なくとも形式上は「多文化主義」へと転換したではないか。しかし、「役に立たない道具」になってしまった人々に対しては、この体制はあらゆる責任をすべて遺棄するだけだ。双竜自動車解雇労働者の中で既に21人が自殺やストレスなどによる疾患で非業の死を遂げているにもかかわらず、果して政府や双竜自動車の資本が対策らしき対策を立てたことがあったか。年齢が40~50になり「強硬労組」のイメージが強くて就職戦線で最も忌避されてしまった老いた解雇労働者たちはこの社会の主流からいかなる関心も払われないまま、ただ死んで行ったのである。それでも労組に加入していた労働者たちの死は労働界の中で同情や連帯意識を誘うものの、どこにも属していない「役に立たない道具」の死ははじめから跡形もなく埋もれてしまうのである。韓国における老人の自殺率は世界最高で、日本・アメリカの4~5倍くらいであるにもかかわらず、毎年貧乏と蔑視の中で自ら命を絶つ5000~6000人の老人たちに対してこの社会は少しでも気を配ったことがあったのか。

 スターリン主義体制とは比較にならない資本主義の内在的な殺人性は民衆の強力な圧力によってこそある程度制御しうる。階級意識と組職性の低い我が国の民衆たちがそのような圧力を行使することができないため、人々が引っ切り無しに死んで行くのである。

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/520099.html 訳J.S