原文入力:2011/12/22 07:49(3371字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
ここ数日間は私にはほとんど地獄のような日々でした。先週から酷い風邪を患った上に、今週月曜日の早朝からノルウェーの各種メディアからの連絡がひっきりなしに来たからです。北朝鮮の金正日総書記が亡くなったが、北朝鮮の実情と将来に対してコメントしてほしいという内容でした。北朝鮮の専門家でもないし、たとえば金正恩(キム・ジョンウン)と張成沢(チャン・ソンテク)の関係のニュアンスなどについてまったく知らない(それを果して誰がまともに知っているでしょうか)私のような人間がこのような取調べ(?)を受けることは苦痛でしたが、それだけでなく、風邪で声がかすれてしまったので、話を続けることすら容易ではありませんでした。しかし、中でも私を最も苦しませたのは、ほとんどの記者たちの態度でした。部数を増やすためだとは思いますが、彼らは何としてでも北朝鮮をさらに異国化し、「未知の東洋的な専制王国」のイメージで読者たちに売り込もうとしているといった印象でした。いわゆるオリエンタリズムの脚本どおりに。しかし、北朝鮮を客観的に見れば、果たしてその実情はそんなに「変」なだけなのでしょうか。一面においては私たち自身を照らし出す鏡のように見えはしないでしょうか。北朝鮮が変なら、南韓を含めた全世界が変だとしなければならないと思います。まあ、私のような社会主義的な立場で見れば、まさにそのように見えるということです。
記者たちは北朝鮮の街頭で集団になって泣き悲しむ場面を極めて「異国的」だとしました。異国視する一方で、「独裁者のために必ず泣かなければならない」北朝鮮の住民たちを気の毒に思っている雰囲気も強かったのです。それならば、6年前に法王ヨハネ・パウロ二世が亡くなった際に彼のために泣いた南韓をはじめ全世界のカトリック信徒たちを果してどのように受け止めればよいのでしょうか。神話ではなく実際の法王ヨハネ・パウロは―金正日総書記のように―かなり矛盾に満ちた人物でした。金正日総書記が世界に対する広い見識、そして南北交流に対する相当な積極性などと共に従来の体制をそのまま保存しなければならないという強迫観念を兼ね備えていたならば、ヨハネ・パウロは相当な常識と想像を絶するほどの保守性を同時に持っていました。常識があっただけに、ダライラマと親交を結び、米帝のイラク侵攻などの露骨な帝国主義的な妄動を非難しましたが、解放神学からコンドームなどの避妊用具までを蛇蝎視したあげく、少なからぬ傷痕を多くの人々に残し、また多くの人々を犠牲にしたこともあります。後に暗殺されたロメロ司教の要請があったにも関わらず、エルサルバドルの悪徳極右独裁に対する批判をしない代わりに、ニカラグアの穏健社会主義政権を非難した1980年代のヨハネ・パウロの政治的な歩みは、レーガンなどのアメリカの極右たちには天からの恵みだったものの、中南米の良心的なカトリック勢力たちの心を深く傷つけたのです。また、AIDSが蔓延するアフリカでのコンドーム使用を否定することは、実は多くの場合は間接殺人に該当します。ヨハネ・パウロはこのように矛盾に満ちた人物でしたが、彼の死は世界中の人々を嘆かせ、彼は既に法王庁により福者に認定されていると聞いています。しかし、法王庁ともなると、いかなるノルウェーの新聞も恐れることなく異国化しコメディーのように報道することはできません。
もちろん北朝鮮のような個人崇拜は現在の南韓では難しいでしょう。国会議員職をはじめありとあらゆるものが自由に(?)取引される我々の新自由主義的な楽土では、人間も商品になるあまり、利用対象にこそなれ、真の「崇拜」の対象になることは困難です。たとえば現職の教授は名誉教授になる途端、その弟子たちの論文にその著書から引用される頻度ががたっと落ちるという話もあるのではないでしょうか。賞味期限が終われば商品はゴミ箱に捨てられるものです。南韓に国是というものがあるとすれば、現在では極端な冷笑、そして「金さえあれば、何でもできる」という堅い信念くらいでしょう。にもかかわらず、このような社会が木っ端微塵にならずに、なんとかそれなりの結束力を誇示しつつ動いている理由の一つは、盲目的な金銭崇拜から「家族」は例外になるということです。年寄りに対する子たちの残酷な遺棄が急速に増えているのを見ると、この部分も次第に変わりつつあるものの、まだ「血縁」といえば、私たちに利用物というよりは、愛し可愛がり、ねぎらい合うべき「身内」の一部分なのです。お金と「血」「血縁」はこの社会の二つの主なイデオロギーです。「血縁」イデオロギーが全社会に広がっていけば、まさに血統的な民族主義になりますが、このイデオロギーが今のように強ければ、「多文化社会」は永遠に空念仏に終わってしまうでしょう。ところが、実際の家族たちと「血族」の間の中間単位がまさに社会的な利益集団やボスによってリードされる政派のような集団であり、このような関係をも私たちはやはり擬似家族の概念で捉える場合がかなりあります。すなわち、先輩やボスを「目上の家族」や「兄貴」と捉えたりしており、それだけ批判的な思考はその場では麻痺してしまいます。まさにこのような状況で最近北朝鮮で展開されている場面と一面において相通ずる場面は平壌ではなくソウルでも起りえたわけです。
何年か前に盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領が非業の死を遂げた際に、全国の焼香所を埋めた人波を思い起こしてみてください。あの時―後に批判者たちにより「盧武鉉の棺商売」と表現された―あの追悼を主導した、いわゆる「盧派」(盧武鉉の熱烈支持者のこと)たちは、盧武鉉という政治家がイラク侵攻とアフガン侵攻のような超大型国際犯罪に積極的に助力することにより、韓国歴史を永遠に汚した点や、盧武鉉こそが韓米FTAの発案、推進過程を信念に基づき主導した点を説得させることができたでしょうか。もちろんできませんでした。「盧パ」であれ、いかなる「パ」であれ、一応その「チャン」(親分のこと)に対して批判的に思考することがとうていできなかったからです。「兄貴」や「親父」並の「チャン」は、彼らには完全無欠な人格の持ち主なのです。柳時敏(ユ・シミン)や文在寅(ムン・ゼイン)の盧武鉉時代に関する著書を一度精読して見てください。反省は一行たりとも見当たるでしょうか。聞かなくても分かることです。「チャン」の偉大なる領導に従って成したことについては、彼らは基本的に自己批判できません。また、平壌の群衆たちと異なり、彼らは何らかの社会的な圧力を意識して「追随」しているのではなく、あらゆるものがすべて取引されている「自由大韓」で家臣の栄えある道を自ら選んだのです。となれば、一体どちらがずっと馬鹿げているでしょうか。私には、「カッカ」(閣下を揶揄する語)をとことんまで罵倒しながらも、あきひろ(李明博のこと)の王座が朴元淳(パク・ウォンスン)や柳時敏に占められても、この国の労働者たちは依然として死んでいくことをまったく知らない「ナコムス」のファンは、平壌の群衆より遥かに馬鹿馬鹿しく見えます。金大中(キム・デジュン)と盧武鉉治下でOECDで自殺率が最も高い社会になった国に住む彼らは、外部からの強制はあまりないにもかかわらず、意識ある階級の構成員、すなわち真の意味の独立的な個人になろうとする努力をまったくしないからです。
「血縁」による所属感から首都圏と地方間の格差、様々な階級的な矛盾、そして英語ブームまで、私たちの抱えている多くの問題を北朝鮮社会も持っています。私たちより遥かに貧しいだけに、遥かに弱く見える彼らを見下すよりは、私たち自身の―かなり格好悪い―姿を直視することがもっと道徳的で効率的ではないでしょうか。彼らは多くの面で私たちの鏡にすぎません。
原文: 訳J.S