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[朴露子ハンギョレブログより] 私も小さな資本家!

登録:2013-05-19 11:19 修正:2013-05-20 10:24
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授

 一人の個人が暮らす社会の根本構造は、どうしてもその個人に絶対的な影響を及ぼすようです。たとえば、ソ連社会の場合は、資本に代わって国家が経済を運営していただけに、社会のほとんどすべての構成員たちには「国家への服務者心理」のようなものが強く働きました。その心理には明もあり暗もありでしたが、明るい面を挙げれば、義務感とか仲間に対する思いやり等々が多くの人々に刻印されており、暗い面を挙げれば、上司の顔色をうかがい空気を読み取って振舞う順応主義も蔓延していました。構成員があまり変わらず、年功序列で動く小社会にありがちなことですが。実は、団塊の世代が歩んできた90年代以前の日本もそのような側面がかなり強かったようですが、ソ連で日本の同時代文学が、そして日本社会の一角でソ連の文学がよく読まれた理由もそこにあったのではないでしょうか。

 ところが、今私たちが生きている新自由主義時代は団塊、すなわち「塊」とはほとんど無縁です。原子化された社会の中で一人一人が一種の「一人会社」のように自分自身を「経営」(?)し、毎日、毎瞬間競争的なサバイバル・ゲームに沒頭しなければなりません。競争会社、すなわち横で働いている仲間たちを押しのけることができなければ、「私」や「一人会社」は淘汰されるからです。まあ、『バトル・ロワイアル』(2000年)をご覧になった方々ならどんな話かお分かりだと思いますが、同僚たちを殺さなければ生き残れない状況を設定したこの映画は、ある面では、90年代以降の東アジア全体の新しい新自由主義的現実を「スリリングに」アクションを交えて映像化したわけです。基本的に今はサッチャーの言葉通り、「社会というものはない」に等しく、みんなが「一人会社の開業」を強いられます。 学者、たとえば大学という名前の最尖端の新自由主義的企業体に雇われた研究・教授役の勤労者(「教授」)もまったく例外ではありません。逆に、大学の雇用者たちこそ「国民皆商」、つまり皆が自分自身を売りながら生きなければならない、偉大なる新時代を開くために先頭に立っています。 国内の大学の風景を眺めてみましょう。そこは今まさに「英語論文の全盛時代」なのです。民衆たちはどのように暮しているか、時代の要請が何なのか、そんなことなどを顧みる余裕は全くなく、大衆的な文を書いて読者に向き合う余裕も殆どありません(保守系日刊紙からコラムの依頼がくれば別ですが)。 基本的に「英語論文」で海外の学界、すなわち植民地母国で「私」だけの名前(一種のブランド)を作らなければ、「学者」の列に並びその元金で商売することはできません。「英語論文」に対する賞金名目で(大学により1~2千万ウォン台です)学生たちの納めた授業料を私有化することによってです。

 我が偉大なる大韓民国が「社会」のような旧時代の遺物などを発展的に解体させる新自由主義的な後天開闢の最前線で競っているので、ノルウェーの社民主義的な原住民たちはどうして完璧な真似などできるでしょうか。しかし根本的にはここも同じです。益々学者に「人民に対する啓蒙の義務」などは消える代わりに、「自分」だけの「一人会社」を限りなく拡張する権利だけが残ります。当初はなかったことなのに、2005年からここでも「論文掲載点数」制度が導入されました。つまり、年に少なくとも一本の研究論文を「検証済みの学術誌」に載せることができなければ、様々な不利益を受けます。先ず旅費などの補助金がカットされ、サバティカルの申請もできなくなるし、賃上げ交渉でも断られるし…。逆に、「論文掲載点数」が高ければ高いほど手厚くもてなしてもらえます。もちろん、大韓民国のように「権威誌掲載論文」に初めから学生たちのお金で報賞(?)するほどにはここの大学の管理者たちは勇ましくありません。まだ「大学は企業と変わらないから、優秀な社員に賞金を与えて何が悪い?」などといったことを民衆の前で公然と話すことは難しい雰囲気です。そこまでは行かなくとも一応「優秀な社員」たちに可用資源を集中させる雰囲気は作ったりします。もちろん植民地母国のSSCIなどに登載されていない学術誌を初めから学術誌として扱わない韓国の模範的な皇民たちと違い、ノルウェーでは「検証済みの学術誌」のリストを国家機関が学界などの助言を得て独自に作り、運が良ければ、たとえばハングルの学術誌も採用させたりすることも可能です。しかし、ニュアンスこそ異なれ、傾向は一つ、ここでも私と私の仲間たちは「小さな資本家」になるよう仕向けられているのです。

 もちろん彼らが私たちにそう仕向けているからといって、服従ばかりしているわけではありません。強要されればされるほど、たとえばブログなどのように「点数にならない文」を書きたくなる反抗心が強くなったりします。学者には「人民の啓蒙」が「名誉ある義務」だったソ連時代、ごく専門的なセム族の言語及び歴史を研究する学者でありながら、党や人民啓蒙機関(「知識」という大衆的な啓蒙団体:http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%97%D0%BD%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5_(%D0%BE%D0%B1%D1%89%D0%B5%D1%81%D1%82%D0%B2%D0%BE) )の要請に従い、ハンニバルとアレクサンドル大王に関する大衆向けの評伝を出し、その大衆的な著書をどんな専門書籍より誇らしく思っていた従叔イリヤ・シッフマン(http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A8%D0%B8%D1%84%D0%BC%D0%B0%D0%BD,_%D0%98%D0%BB%D1%8C%D1%8F_%D0%A8%D0%BE%D0%BB%D0%B5%D0%B9%D0%BC%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87 また http://www.orientalstudies.ru/eng/index.php?option=com_personalities&Itemid=74&person=216 )のような「啓蒙的学者たちの時代」は今や美しい夢のように懐かしくなりました。私は彼の大衆的な著書を読みながら育ち、そのようにして歴史を愛するようになりました。ところが私たちの「英語論文」を果して未来の少年たちが読みながら歴史愛という不治の甘い疾患にかかるでしょうか。私たちは資本の奴隷、学界の小さな資本家に自らがなり、自らを去勢させていることをつくづく実感します。聖書の言葉通り、すべてを得ようとも自分の魂を売ってしまったら何の役に立つでしょうか。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/59623 韓国語原文入力:2013/05/15 18:36
訳J.S(2842字)

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