登録 : 2013.05.18 09:09 修正 : 2013.05.18 20:54

キム・ジェギュは保守右翼界の最後の大陸型人間

10・26事件以後、軍事裁判所に回付されたキム・ジェギュ(右側の白い服を着た人)前中央情報部長が1979年12月8日、陸軍本部戒厳普通軍法会議大法廷で部下のパク・ソンホ(左側の捕縄に括られた人)中央情報部儀典課長に会い、明るい表情で挨拶している。 <ハンギョレ>資料写真

最近、女性芸能人が‘民主化’を
否定的に書いて論難があった
キム・ジェギュの挙事は自由民主主義の
回復には完全に至れなかったとは言え
女性芸能人が大統領の酒席に
呼ばれて行くことだけは確実に遮断した

親日派が勢力を伸ばした国で
安重根(アン・ジュングン)、尹奉吉(ユン・ボンギル)、
李奉昌(イ・ポンチャン)、金九(キム・グ)に象徴される
保守右翼義士の系譜は代が途絶えてしまった
野獣の心情で維新の心臓を撃った
キム・ジェギュが後に続いたわけだ

 1979年10月民衆の荒々しい抵抗と執権勢力内部の亀裂によって歴史の舞台から退出した朴正熙は、1997年末の外国為替危機と2012年の大統領選挙を辿り華麗に復活した。 2012年の大統領選挙結果が歴史の法廷で朴正熙にあげた最終判決になりうるだろうか? フランス革命の故郷でも、ナポレオンが自ら皇帝になったし、最初の大統領に選出された彼の甥 ルイ ナポレオン・ボナパルトも‘国民投票’を経て再び皇帝になった。 フランス最後の皇帝の出現を見ながらマルクスは、人間が過去から条件建てられ譲り受けた環境の中で歴史を作るだろうと語った。 「すべての死んだ世代の伝統は悪夢のように生きている世代の頭を押さえ付けている」ということだ。 皇帝ナポレオンの銅像が倒されて粉々になるためには甥のルイ ナポレオン・ボナパルトの肩に皇帝のマントがかけられなければならなかったように、朴正熙の郷愁もまた一度は消費されなければならなかった。 歴史の法廷で朴正熙とキム・ジェギュがまともに向かい合って立つことになるのはその後にこそ可能だろう。

"維新を擁護しない" 背信に歯ぎしりした朴槿恵(パク・クネ)

 維新体制に対する抵抗がすさまじかったと言うが、青年学生たちのスローガンは "維新撤廃" と "独裁打倒" 程度であり、朴正熙を殺せというスローガンまで出てきたわけではなかった。 ところがその朴正熙が死んでしまった。 それも中央情報部長の手で! 大衆の衝撃はあまりにも大きかった。 大衆は予想もできない独裁者の死に衝撃と不安に陥り、一部は北で金日成が死んだ時ほどではなくても焼香所を訪れたり国葬の時に沿道に出てきてとめどなく泣いた。 昨日まで「維新だけが生きる道だ」と叫んでいた共和党と維新政友会議員や維新言論人は各々新しい生きる道を探さなければならなかった。 あれほど熱心に新民党議員の辞退願いを選別受理したとか喚いていた人々の中に維新体制を守らなければならないと乗り出した人は誰もいなかった。 父親の葬儀を行うやいなや追い出されるように大統領府を去らなければならなかった朴槿恵(パク・クネ)は、人々が「父親が生きている時には維新をしてこそ私たちが生きる! そう叫んで通ったのに、父親が亡くなると維新を擁護しない」として、その背信に歯ぎしりした。 維新のラッパ吹奏者たちは国会で与野党同数で新憲法を作るための改憲特別委が組織されたことを黙って見守らなければならなかったし、緊急措置解除と拘束者釈放にあえて文句をつけることもできなかった。

 在野民主勢力は‘先大統領選出、後改憲’を、維新残党が 「自分たちの腐敗した特権支配を最後まで温存させる時代錯誤的な詐欺」と見て、これを阻止するために‘統大選出 阻止国民大会’(訳注:選挙によらず統一主体国民会議代議員による大統領選手を阻止するための国民大会)を開催した。 11月24日明洞(ミョンドン)YWCA会館では新郎ホン・ソンヨプと新婦ユン・ジョンミンの結婚式が開かれることになっていた。 新郎は民主化運動陣営の美男子だったが、新婦は架空の人物だった。 当時は戒厳令のために一切の集会が禁止されていたので‘偽装結婚式’を借りて国民大会を開いたのだ。 (この日の新郎ホン・ソンヨプは‘偽装結婚式’をしたためか、本当の結婚式は挙げられず生涯を独身で生き、無念にも2005年に白血病で死亡した。)

 民主化という明確な目標が提示されたにもかかわらず濃い霧のために道は見えなかった。 維新の最後の国会から追い出された金泳三は華麗に政治舞台に復帰し、永く軟禁状態にあった金大中は崔圭夏(チェ・ギュハ)が大統領に選ばれた後に軟禁を解かれた。 はるか以前に自身が作った共和党の総裁に選出された金鍾泌(キム・ジョンピル)は、維新体制の被害者のようなフリをしながら「新しい時代を切り開き、その主役にならなければならない」として改憲以後に実施される大統領選挙に対する欲を隠さなかった。 今や三金時代が開幕するかに見えた。

 戒厳令が宣言されるや合同捜査本部長になった保安司令官 全斗煥(チョン・ドゥファン)は10月28日の中間捜査発表で、キム・ジェギュがチャ・ジチョルと感情対立が激化し「業務執行上の無能で数回にわたり大統領から叱責を受け、それによって最近の要職改編説により自身の引責解任を憂慮したあげく犯行を犯した」と主張した。 11月6日の捜査結果発表で全斗煥は10・26事件を "政権奪取を目的としたキム・ジェギュの計画的犯行" に追い込んだ。 全斗煥にとってキム・ジェギュは「父親を殺した子供程度の背徳者」であった。

 キム・ジェギュに対する裁判は12月4日に始まった。 キム・ジェギュが朴正熙を射殺したという点は疑問の余地がなかった。 問題はその意図であった。 全斗煥を中心に結集した‘新軍部’は、キム・ジェギュの行為が内乱目的の殺人事件だったと規定したが、当事者のキム・ジェギュは自身が「朴大統領の墓を踏んで立って政権を掌握しようとする程に道徳的に破廉恥でもなく政権欲に狂ってもいない」と抗弁した。 裁判におけるもう一つの争点は管轄権問題であった。 キム・ジェギュが朴正熙を射殺したのは1979年10月26日午後7時40分頃であり、戒厳令が宣言される以前であり、朴正熙もキム・ジェギュも共に現役軍人ではなかったため、軍事法廷で裁判が進行する根拠はどこにもなかった。 それでも新軍部は軍法会議でほとんど毎日裁判を開くほどに裁判の進行を急いだ。

全斗煥の先制攻撃、二等兵に降格されたチョン・スンファ

 崔圭夏(チェ・ギュハ)が維新憲法により大統領に選出され、12月8日午前0時を期して緊急措置が解除されるや、人々は遅ればせながらようやく民主化が始まりそうな感じを持つことができた。 そのような感じは何日も続かなかった。 12月12日夜、漢江(ハンガン)の南から江北(カンブク)に帰宅した市民たちは戒厳軍が当時11本あった漢江の橋を全て遮断し、車両の通行を許さなかったために大変な苦労をしなければならなかった。 着手から完了(翌年5月17日)まで、世界で最も長いクーデターと呼ばれる12・12事件が起きたのだ。 この日の夜、戒厳司令部の合同捜査本部長であった全斗煥が戒厳司令官である陸軍参謀総長チョン・スンファをキム・ジェギュの共犯と疑われるとして連行した。 チョン・スンファはキム・ジェギュの強力な推薦で陸軍参謀総長になった上に、キム・ジェギュが10・26事件当日 宮井洞(クンジョンドン)の安家に呼んでおいたのでキム・ジェギュと何らかの共謀をしたという疑いをかけられた。 韓国現代史の最も決定的な瞬間に先制攻撃で決定打を飛ばしたのは全斗煥だった。

 朴正熙は自身と故郷が同じ嶺南(ヨンナム)出身を重用した。 全斗煥は5・16直後、陸軍士官学校生の5・16支持デモを組織して朴正熙の目に留まった以後、大統領府警備を務めた30大隊長、空輸1旅団長、大統領警護室作戦次長補、1師団長、保安司令官などを務めて朴正熙の寵愛を受けた。 朴正熙の政治的息子である彼が、10・26事件の捜査責任者である保安司令官であったという点はその後の事態進展に決定的な意味を持っていた。 10・26事件は維新政権の実際の権力序列1位から4位に該当する大統領、中央情報部長、警護室長、秘書室長が集まった席で中央情報部長が大統領と警護室長を殺害した事件だった。 維新体制の頂点に突然途方もない権力の空白が発生したわけだ。 この空白期に新たな実力者として浮上した人は陸軍参謀総長から戒厳司令官になったチョン・スンファと保安司令官として合同捜査本部長を務めた全斗煥だった。 10・26事件は法的に殺人事件だったので、捜査責任者である合同捜査本部長の権限が強化されるほかはなかった。 ところで合同捜査本部長の上級者である戒厳司令官が殺人事件の共謀者の疑いをかけられることになったのだ。 チョン・スンファとしては非常にくやしいことだった。 彼は決定的な瞬間にキム・ジェギュを南山(ナムサン)の中央情報部ではなく龍山(ヨンサン)の陸軍本部に移動させたことでキム・ジェギュの意図を挫折させた張本人だった。

 チョン・スンファが疑いをかけられた理由は別にあった。 チョン・スンファは全斗煥に権力の雪崩れ現象が起きることが非常に危険だと見た。 チョン・スンファは全斗煥を保安司令官から解任し、東海警備司令官に左遷させる計画を立てたが、保安司は盗聴を通じてこの計画を知ってしまった。 常に軍部クーデターを警戒してきた朴正熙体制で、保安司は強大な機構だったが、10・26事件以後の保安司は昨日までの保安司ではなかった。 戒厳令で保安司を中心に合同捜査本部が編成されたことにより保安司は検察と警察を統制することになった。

 平時に保安司を牽制できた唯一の機関である中央情報部は、その首長が大統領を殺害したために完全に逆賊機関に追い込まれ保安司に掌握された。 保安司の実際の兵力はいくらもいなかった。 チョン・スンファはクーデター防止が主な任務である保安司が軍の情報チャンネルを独占してクーデターを起こせば戒厳司令官もかなわなかったと弁解した。 戒厳司令官チョン・スンファは陸軍大将から突然 二等兵に降格され保安司から水拷問まで加えられた。 大統領と中央情報部、警護室、秘書室が全て無力化された状態で、合同捜査本部職制を通じて検察と警察を掌握し軍事反乱を起こして戒厳司令官まで制圧した保安司令官 全斗煥は最高の実力者に浮上した。

 "維新という巨大な怪物" が "朴正熙ひとりがなくなれば自然になくなる" と見たキム・ジェギュは、維新の頭を切ることには成功した。 しかし頭を切られた維新という怪物に新しい頭が出てきた。 朴正熙の政治的私生児の全斗煥だった。 全斗煥はキム・ジェギュを切って光州(クァンジュ)を血の海にした。 朴正熙の後に続いて結局この国を13年間にわたり統治した全斗煥と盧泰愚(ノ・テウ)はそれぞれ大統領府警護室作戦次長補と行政次長補を務めた朴正熙の近衛将校だった。 全斗煥は朴正熙の痕跡を消して新しい時代を標ぼうしたが、それは朴正熙のいない朴正熙時代であった。

 キム・ジェギュは12月18日に行った1審最終陳述で民主化に向けた政治日程を踏まない崔圭夏(チェ・ギュハ)に向かって「自由民主主義は門の前まで来ているのにドアを開けようとしない。 絶対に自由民主主義のために混乱が来ることはない。 はやく政権を委譲し混乱を防げ」と促した。 キム・ジェギュは「はやく民主回復をしなければ、来年3,4月頃に全国的に民主回復運動が起きるだろう」と予言した。 崔圭夏(チェ・ギュハ)は何かを積極的にしてではなく、この決定的な時期に何もしないことによって全斗煥の登場と維新の復活のためのカーペットを敷いた。 何もしないことの罪がこれほど大きいことはなかった。 市中では全斗煥ゴーストップ(訳注:花札のこいこい)が登場し、チェ・ギュハ花札も現われた。 全斗煥ゴーストップは総取りすればカス札ではなく自分が取りたいものを何でも一枚ずつ持ってこれるルールだった。 チェ・ギュハ ゴーストップは総取りすれば、自分のカス札を相手に一枚ずつ与えるルールだった。 花札賭博ではチェ・ギュハ ゴーストップをしながらクスクス笑ったが、実際の歴史では多くの人々に血涙を流させた。

 法廷のキム・ジェギュは堂々としていた。 当初、人権弁護士らはいくら独裁者の朴正熙を処断したとは言え、民主人士を弾圧した中央情報部の首長を弁護しなければならないのかとキム・ジェギュの弁護に気乗りがしなかった。 しかし裁判が進むにつれ、弁護士らは自由民主主義の回復に対するキム・ジェギュの真正性と人柄に魅了された。

 キム・ジェギュは 「大丈夫としてこの世に生まれ、自分ができる、自分が死ねる名分を発見」したと考えていたので、法廷で命乞いをしなかった。 ただし彼は部下だけは絶対に生かしたかった。 「革命理念に完全に同調した人ならばあの世に連れて行っても良いが、何も分からずに死ぬということ」に対する罪の意識のためだった。 キム・ジェギュは獄中修養録で「今までは自身の正当性の主張で罪悪感を感じられなかった」と述べたが、「今はあの顔ぶれを見れば死にたい。 一日も早く」と書いた。

"国民の皆様、自由民主主義を満喫して下さい"

 キム・ジェギュは朴正熙を撃ったが、朴正熙の名誉だけは守りたかった。 彼は法廷で朴正熙に女性芸能人を呼んで与える仕事を担当したパク・ソンホが、ユン・チャンジュンがした程度のことは問題にもならなかった朴正熙の女性問題について述べようとするやすぐに振り返って「オイ! 喋るな」と制止しもした。 しかしキム・ジェギュは現役軍人としてパク・フンジュが単審で死刑宣告を受けるや動揺したように見える。 彼は1980年2月15日(陰暦12月29日)付けの修養録で「全員を救済する方法が対国民世論にかかっているならば、事実だけは公開しなければならない」として「もちろん亡くなった方の名誉を考えれば胸は痛い。 しかしあの若い生命をどうすれば良いのか」と苦悶した。 キム・ジェギュもパク・ソンホも朴正熙の女性問題については最期まで口を開かなかった。

 最近ある人気女性芸能人がイルベ(訳注:日本の2chに類似したインターネットサイト'日刊ベスト保存所'の略称)たちが書く方式で‘民主化’を否定的に書いて論難が起きた。 キム・ジェギュの挙事が自由民主主義の回復にまでは至れなかったが、女性芸能人があのような形で大統領の酒席へ呼ばれることだけは確実に遮断した。 ユン・ボソン前大統領はキム・ジェギュの救命を訴えながらわが国の民主化がキム・ジェギュに借りがあると語ったが、民主化の意味を理解出来なかったその女性芸能人も例外ではないだろう。

 私たちの歴史にはもう一つの10・26事件がある。 安重根が伊藤博文を撃った日が1909年10月26日だった。 70年を置いて二つの10・26事件があるわけだ。 日本帝国主義の残滓を清算できずに軍事独裁が到来したが、日本帝国主義を象徴する伊藤の命日と軍事独裁の象徴である朴正熙の命日が同じということは単純な偶然ばかりではないだろう。 安重根も、尹奉吉も、キム・ジェギュも、いや遠くは司馬遷の<史記列伝>で最も感動的な部分である<刺客列伝>の荊軻(けいか)も丈夫または壮士を詠った。

 分断と戦争と虐殺をたどりながらあまりにおとなしくなったためなのか、進歩陣営には大義のために自分の身を燃やし自分の血を流した烈士は逐一名前を呼ぶことができないほどあふれているが、自分の命を捧げて敵の血を流させた義士はただの1人もいなかった。 右側の町内でも事情は変わらない。 親日派が勢力を伸ばした国で、安重根、尹奉吉、李奉昌、金九に象徴される保守右翼義士の系譜は代が途絶えた。 野獣の心情で維新の心臓を撃ちながらも朴正熙の名誉は最後まで守ろうと思ったキム・ジェギュは代が断たれた韓国保守右翼の派閥学から突出した最後の大陸型人間だった。

 キム・ジェギュは5・16と維新という朴正熙の内乱に同行しながらも、結局この内乱を終息させた。 キム・ジェギュの行動を内乱目的殺人へ追いやったのは全斗煥の内乱だった。 キム・ジェギュは最終陳述で 「国民の皆様、自由民主主義を満喫して下さい」という言葉をもって国民に対する別れのあいさつに代えた。 キム・ジェギュが死刑になったのは光州で民衆抗争が真っ最中だった1980年5月24日のことだった。 キム・ジェギュを殺した全斗煥は光州市民の抗争まで踏みにじり、生命が尽きたかに見えた維新体制を看板だけ懸け変えて新装開店した。 全斗煥の内乱はそのようにして完成されたし、それから33年が過ぎた今日、私たちは未だ自由民主主義を満喫できていない。 大韓民国が朴正熙と維新の亡霊を振り切って自由民主主義を満喫することになる時、キム・ジェギュに対する評価は明らかに変わるだろう。

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/05/17 20:32
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/587948.html 訳J.S(7143字)

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