登録 : 2013.03.30 00:21 修正 : 2013.03.30 08:47

朴正熙ならば‘国際中’と‘外国語高校’を放っておくか

中学校 無試験制度が初めて始まった1969年、小学校の卒業生が自身が通う学校を決めるために抽選している。<ハンギョレ>資料写真

 朴正熙を肯定的に評価するか、否定的に見るかという立場は、韓国社会である人が進歩か保守かを判断するリトマス試験紙になってしまった。 ところが朴正熙が断行した平準化政策についてだけは、進歩と保守と立場が完全に入れ変わってしまう。 進歩的な立場を取る人々は何とかして平準化政策を維持しようとしている反面、朴正熙を崇拝する者は渾身の力を込めて平準化を壊してしまおうとしている。 いや、もしかしたらこれも数年前の話かもしれない。 科学高校と外国語高校など、特別目的高校出身が上位圏大学入試を総ざらいしている現実で、今守らなければならない平準化が残っているのかという嘆きさえしきりに聞こえてくる。

課外に苦しめられた国民学校生の集団家出事件

 1945年解放当時の文盲率はおよそ80パーセントだったが、驚くべき教育熱のおかげで解放30年になった1975年には韓国人全体の平均学歴が国民学校(小学校)卒業水準に達した。 朴正熙が1969学年度から中学校の無試験進学を断行したのに続き、1974学年度からは高等学校も無試験進学を実施したのは韓国社会の教育膨張を反映したことだった。 良くも悪くも韓国社会の教育熱は分断と戦争で深い傷を負った韓国が早期に民主化と産業化を同時に達成できた原動力になった。

 義務教育の実施により1950年代後半には殆どすべての進学年齢の子供たちが国民学校に入学することになり、国民学校生の数は大幅に増え、自然に中学校に進学しようとする生徒も大幅に増加した。 しかし中学校の数には特別な変化がなかったため、彼らを受け入れるのは困難で、自然に中学校入試はますます激化した。 1960年代の中学校入試がどれほど熾烈だったかを見せる事例としては、1965学年度入学試験当時の大根おろし波動を挙げられる。 1964年12月7日、前期中学入試の共同出題自然科目18番の問題は "麦芽の代わりに入れて飴を作れる物質は何か" であった。 共同出題委員会の正解はジアスターゼだったが、多数の生徒たちは大根おろしを選択した。 この問題一つで当落が分かれた生徒たちの両親は、行政訴訟を提起した。 熱誠な両親たちは大根おろしで飴を作り "くそくらえ" デモを行った。 裁判所は原告側の手を挙げて計38人の生徒が名門中学校に入学できることになった。 ところですばしこい人は、この隙を利用して名門中学校に子供を押込み、21人がおまけで裏口入学をした。

 裏口入学関連者の中には、大統領府政務秘書官ミン・チュンシクと公報秘書官パク・サンギル等も含まれていた。 政府は急いで彼らを解任したが、波紋は静まらなかった。 結局、朴正熙が直接介入し文教部次官、文教部普通教育局長、ソウル市教育長などの辞表を出させろと指示した。 この事件について<東亜日報>は "大根おろし事件の余波はすごい。 学校長の首を飛ばし、大統領府秘書官の首を飛ばし、権力地図を再作成させた" と皮肉った。 1967年には課外に苦しめられた国民学校生4人が1週間を越えて集団家出して、両親たちが 「もう課外を受けさせない。 早く家に帰って」と訴える新聞記事が<朝鮮日報>社会面トップに載せられもした。

朴正熙が名門高を中心とした
学縁体制を打破できたのは
その学縁の外側にいたためだ
名門高の既得権を剥奪する悪役を
京畿高出身のミン・クァンシクに任せたが
彼の用人術は真に冷酷だった

平準化の道は平坦ではなかった
名門高の先輩らは抽選で入学した後輩を
後輩とは認めなかった

梨花(イファ)女子高は22人を辞退させ
劣等クラスの生徒たちは狼として扱われた

 1968年7月15日、文教部長官クォン・オビョンは国民学校教育の正常化のために1969学年度から中学校入試を廃止し、抽選で入学することにすると発表した。 文教部は中学校の一流病をなくすため、ソウルの京畿・ソウル・景福中と京畿女子中・梨花(イファ)女子中など5ヶの名門中学校を閉鎖することにした。 国民の大多数はこの措置を「20年間続いてきた入試地獄を一日で押し倒した学校群抽籤制の革命」として歓迎した。 言論は、国民学校には歓声が弾け子供たちの顔には笑いの花が咲いたと報道した。 劇場と貸し漫画屋には子供たちがあふれた。 名門中学校の閉鎖、特に私立の梨花(イファ)女子中の閉鎖は非常に暴圧的な措置だったが、高等学校が存続したためか思ったほどには反発は大きくなかった。 反発はとんでもないところから出てきた。 ソウル市教委は1969学年度に5ヶの中学を閉鎖して、龍山(ヨンサン)・京東(キョンドン)・師範大付属中と昌徳女子中・首都女子中は1969学年度に学級の半分を、1970学年度には残りの半分をなくすよう計画した。 ところが市教委が龍山・師範大付属中・昌徳女子中など3ヶの中学の名称を変えて存続させようとするや龍山高校生1千人余りが 「他の一流中学はみな閉鎖するのに、なぜ私たちだけを残すのか。そのまま存続させれば生徒たちの質が落ちる」などの理由を挙げて激烈な反発座り込みを行いもした。

 中学校無試験制度の採択は、中等教育の需要が爆発的に膨張することにともなう必然的な帰結だった。 中学校入試廃止を発表したクォン・オビョンに対して、当時ある新聞は "爆弾的な中学入試制廃止を発表、600万小学生から尊敬を受けることになった" として "この程度なら子供王国の王座を享受するに値する" とまで報道した。 クォン・オビョンは「中学校無試験抽籤制が義務教育の9年延長のための最初の処置」としつつ「受益者に過重な負担を与えずに政府の中等教育費で3年以内に中学校の平準化を期することができると大言壮語」した。 しかし一線で教育に責任を負っていたソウル市教育長チェ・ポクヒョンの説明は違っていた。 彼は中学教育は義務教育ではないとして「中学校施設費と増設費は受益者負担原則により生徒の父母が負担」しなければならないと主張した。 ソウル市内の国民学校卒業生が毎年3万人ずつ増えている状況は、毎年中学校を500学級ずつ増設することを要求するが、国家の財政状態がこれに耐えられないということだ。 結局、中学校の公納金は私立と公立を同水準に合わせながら大きく跳ね上がり、公立の引き上げ幅は65パーセントにもなった。

‘農民の息子’らしい最も急進的な社会改革

 1969年2月5日、零下15度の酷寒に子供たちは自分の手で抽選機を回して自身が3年間通う中学校を決めた。 子供たちが直接抽選することに対して射倖心を助長するという批判も高かった。 当局は‘三流学校’を選んだ生徒が進学をあきらめることを憂慮して、自身が抽選した学校に進学しない子供は翌年の抽選券を得られないようにすると脅した。 私設学院に対しては、高校入学検定試験クラスの生徒募集を中止することを命令し、生徒たちの離脱を防止した。 当局は‘三流学校’を選んだ優秀学生の進学放棄を心配したが、現実には反対のことが起きた。 私立の名門 培材中では、学歴が振るわない生徒29人を「とうてい中学生の学歴を認めることはできない‘低能児’たちなので校則に則り退学」させるとし、大量に追い出して問題になりもした。 真の平準化が成り立つには、生徒と教師と施設が全て平準化されなければならないが、生徒は確かに平準化されたが教師と施設の平準化 -江南(カンナム)と江北(カンブク)の格差が明確になる以前まで- はかなり遅れた。

 中学校無試験入学が実施されると国民学校生は楽になったが、それまでは京畿中に入学すれば大きな問題がない限り京畿高に進学するような同系進学方式で高校に入学していたので高校入試は大きな問題ではなかった。 しかし中学校入試をなくすと風船効果のように高校入試が激化していった。

 維新クーデター直後の非常に厳しい雰囲気の中で朴正熙政権は人文系高等学校に対する平準化を断行した。 1974学年度からソウルと釜山で人文系高校は連合考査を通じて学区別に総人員を選抜し抽選配分する方式に、1975年度には大邱(テグ)、仁川(インチョン)、光州(クァンジュ)に拡大するということだ。 文教部長官ミン・クァンシクは高校入試の弊害として「生徒の身体的発達阻害、利己的で非協同的な性格形成、学校格差造成、私教育費、学校教育不信、出身学校中心の人間評価」等を挙げた。 朴正熙は「勉強は高校でもっとさせて、中学校の幼い生徒には過度な入試競争から抜け出し心身を等しく発達させるようにしろ」と指示した。

 当時は韓国社会に一流高等学校を中心にした学縁・学閥社会が強く席を占めていた時期であった。 その頂点には京畿高-ソウル大の特権的教育財貨を保有した人を示す‘KSマーク’があった。 必ずしも京畿(キョンギ)高だけではなかった。 ソウルには5大公立とか5大私立とか言われる名門高があったし、全国各地にも地域の名称を引用した名門高が強力な学縁を形成しつつあった。 朴正熙は名門高等学校を中心に形成されたこの学縁体制の外側にいた。 朴正熙自身だけでなかった。 イ・フラク、キム・ヒョンウク、パク・ジョンギュ、チャ・ジチョルなど軍出身の実力者は言うに及ばず、民間人官僚の中にも名門高出身でない者がはるかに多かった。 例えば、朴正熙時期に最高の官運(訳注:官職に恵まれる運)を誇ったシン・ジクスは全州師範に名前も良くしられていない韓国大学の出身であり、ナム・ドクウは中学校独学で国民大学を出た。 キム・ジョンニョムは江景(カンギョン)商高を卒業したし、チャン・ギヨンは善隣商高が最終学歴だった。 名門高等学校を出た陸軍士官学校出身とソウル法大出身が世の中を掌握し翻弄し‘陸法党’の全盛時代を謳歌したのは朴正熙が死んだ後のことだ。 朴正熙の用人術は本当に冷酷だった。 朴正熙は京畿高など名門高等学校の既得権を剥奪する悪役を京畿高出身であるミン・クァンシクに任せた。 後日、ミン・クァンシクは自身が京畿高出身でなかったとすれば、平準化という改革をとうてい実践できなかっただろうと回顧した。

 中学校無試験と高校平準化のような果敢な措置が相次いで実現したことについて、多くの人々はこれが朴正熙の息子パク・ジマンのためのものだと首肯した。 パク・ジマンは1958年生まれで中学校‘抽選機’としては3期、高等学校‘抽選機’としては1期に該当するので、そのような話が出るほどだった。 しかし‘58年戌年’という話もあるように、この世代はまさに戦後のベビーブーム世代であった。 ベビーブーム世代の教育熱は猛烈だったし、今や高等教育は日帝時代のような少数エリート養成のためのものでなく‘高等普通教育’を意味することになった。 中学校と高等学校無試験のような衝撃療法を押しつけることができたのは、入試地獄が必ず解決しなければならない社会的弊害という共感が社会全般に、特にベビーブーム世代の両親たちに強く形成されていたためだ。 学閥と一流高等学校を正そうという意識が広まっている社会で中学と高校の平準化は朴正熙が常に口にしてきた‘貧しい農民の息子’らしい政策であり、彼が行った最も急進的な社会改革だった。

<韓国法曹人大観>京畿高、そして大元(テウォン)外高

 平準化の道は平坦ではなかった。 既存の名門高等学校は名門高等学校なりに、いわゆる三流学校は三流学校なりに先輩と後輩の間によそよそしい関係が継承された。 名門高の在学生、先輩や同窓、さらには一部の先生でさえ、運良く抽選機を回して入って来た新入生を本当の後輩や弟子として扱わなかった。 いわゆる三流学校や不良学校では、教師たちが在学生と新入生の接触を遮断したり監視したし、学校があけすけに新入生を優待したので在学生たちは過ちを犯したわけでもないのに臆した。 名門高体制に習熟していた一部の人々は平準化を「羊と狼を一つの学級に追い込んで勉強させるようなものだ」という極限的な言葉で攻撃しもした。

 平準化は5大都市に拡大したが、中3生たちの連合考査成績が1974年平均171点から1975年には154点、1976年150点に急落すると下方平準化論難が荒々しく起きた。 「学力低下は平準化以後、高等学校教育機会が拡大したことにより現れたもので、過去には高等学校に進学できなかった生徒たちが高等学校に進学して起きた現象」という点は完全に無視された。 梨花(イファ)女子高では1975年2学期に「学業成績が大幅に遅れ、正常な高校教科課程を履修できない学習不振生徒」24人に自主退学を強要し、22人を退学させた。 当局が驚いて多くの学校では禁止させたが、公然と優劣クラスを編成した。 感受性がもっとも鋭敏な時期に水準別授業をするという名目の下で無念に‘狼’にされた劣等生たちの受けた傷はあまりにも大きかった。 トイレで出会った優秀クラスの子供たちの内、できない者を人間扱いしないときには殺したいと思ったし、担任先生まで自分たちに気を遣わない時には死にたいと思った。

 よく私立学校が私立学校の個性と自律性を侵害されるので平準化に強く反対したと言われているが、事情は必ずしもそれほど単純ではなかった。 高等学校の序列化が明確だった時期、抽選による学生配分は評判があまり良くなかった学校が新興名門となって上がって来られる良い機会であった。 景福(キョンボク)高にしても指折り数えられる名門だったが、当時の教頭先生の回顧によれば平準化を京畿とソウルに先んじる良い機会と見て「先生に無理をさせ、熱心に先頭に立って」入試準備をして平準化1期の大学入試(77年度入学生)ではソウル大に京畿やソウル高より多くの生徒を入学させたという。 学校はますます入試準備機関に転落し、全人教育はもはや誰も省みない古い目標になった。 以前は優秀な生徒たちが自身の適性や希望に応じて大学を選択するケースも多かったが、成績の良い生徒は無条件に何科であれソウル大に願書を書けと責め立てられた。

 "小川から龍が出る" という言葉が象徴するように、韓国社会で教育を通じた身分上昇は、この社会の不平等と矛盾を緩和して社会に躍動性を付与する重要な装置であった。 高校平準化は時間の経過と共に名門高出身の学閥社会が固定化されようとしている時に、これを強く一回揺さぶった衝撃療法であった。 中学校無試験は国民学校生を、高校平準化は中学生を入試地獄から解放したが、今度は大学入試は敗者復活戦のない一発勝負になった。 大学入試が平準化以前より数倍激しくなったのは当然のことだった。 下方平準化とは、一時私教育市場で名を上げた講師であった教育評論家イ・ボムが断言するように 「我が国の教育問題に関連した最も深刻な詐欺」だ。 教育を自由で批判的な市民の養成と見るか、身分上昇の手段と見るか、あるいは身分固定化の手段と見るかによって平準化を眺める立場は明確に異なるだろう。 過去の名門高等学校体制に郷愁を感じる勢力はすでに科学高校だ外国語高校だと言いながら実質的に平準化を蚕食したし、「大学入試中心の教育をしない」という厚かましいスローガンを掲げて自立型私立高も作り出した。 最近の国際中事態に見るように、特権層が自分たちだけの人脈をより一層強固にして、安全に大学に進学するという‘特殊目的’のための学校は中学校水準にまで浸透した。 2013年版<韓国法曹人大観>によれば、現役で活動している法曹人を出身校別に見る時、開校30年にしかならない大元(テウォン)外高が100年の歴史を誇る伝統の名門、京畿高と並んで460人を輩出している。 新しい名門高の登場は明確になった。 うわべだけ残った平準化を守るだけでは新しい身分制の登場を防ぐことはできない。 朴正熙が生き返って来ても嘆くだろう。

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/03/29 20:04
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/580459.html 訳J.S(6717字)

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