囲碁はあまり得意ではない。にもかかわらず、かつて新聞に掲載された囲碁観戦記を長い間目で追ってきたのは、彼の文章のためだった。囲碁専門記者だったパク・チムンの記事における囲碁は、勝負の冷徹さと人生の壮絶さが漂うドラマのようだった。囲碁を単なる「ボードゲーム」と片付けてはいけない理由がまさにここにあると、十数年前の筆者は考えていた。
対局の主要な局面を紹介するパク記者の文は、決して「無表情」ではなかった。例えば、白陣に深く攻め入った末に、退路が断たれた黒石が捕らえられる場面で、彼は「黒2点が取られた」といったありふれた表現の代わりに、「上辺への侵入を先頭で導いていた黒石たちは、結局敵陣を離れぬ『孤魂』となってしまった」といったような文を書いた。
棋譜の解説を行いながら、着手直前の空っぽの碁盤について書いた場面も壮大だった。文字一つない白紙に似た空の碁盤について、何を言えるだろうと思うかもしれないが、パク記者は違った。「広大な海のどこに私の人生があるのだろうか。これから刀を携え大海へと向かう。果たして生きて帰ってこられるだろうか」という文で、戦場を目の前にしている囲碁棋士に物語を与えた。彼の文章の中で、横・縦19行の盤上は悲劇の戦場であり、黒石と白石の闘いは孤独な騎士たちが全力で書き下ろす一篇の叙事詩だった。
しかし、筆者にそのロマンの時代は長くは続かなかった。10年前、イ・セドルとアルファ碁の対局は、筆者が没頭していた文を無力な修辞へと転落させた。観戦記や棋譜解説に登場する囲碁棋士の苦悩と棋風は、石の位置に応じて碁盤上のすべての手を瞬時に分析し、最適な勝率を算出して一手を繰り出す人工知能(AI)の前で、細部まで解体されてしまった。AIが圧倒的な効率で正解を導き出す時代が到来したことで、人間の躊躇や戦場で命を落とした石に息を吹き込んでいた文はその光を失ってしまったのだ。
今やプロ囲碁棋士たちは、もはや何百年も受け継がれてきた人間の棋譜から一手を探さなくなった。AIが示す確率の数値で、効率と実利を判断する。AI同士が対戦した棋譜を見ながら勉強し、AIが推奨する「ブルースポット」(勝率が最も高い手)を理解しようと努力する。人間の囲碁が消えたところで、文は居場所を失い、機械の計算だけが残ってしまった。
アルファ碁が登場した当時、囲碁棋士たちが感じた喪失感と危機感は、現在では多くの産業分野で確認されている。長年現場で奮闘し培ってきた熟練工の技術がAIに取って代わられ、フィジカルAIの登場がこの変化をさらに加速させている。良い文章を書くために文を磨き続けてきた作家、一枚の絵のために何度も筆を取ってきた画家、一節のために絶えず楽譜を書き直してきた作曲家なども、AIの前で努力の賜物を奪われつつある。
さらに陰鬱なのは、AIが碁盤を越えて人類の生死がかかる実際の戦争指揮所まで占拠したという事実だ。情報分析にとどまっていたAIは、標的の特定から打撃実行に至る全過程に関与し、戦争の意思決定構造を変えてしまった。AIを戦場の「脳」として投入した米国の今回のイラン空爆が、戦争史において特異点として記録されるべき理由だ。
AIには人間の目と心はない。倫理的禁忌さえも最適値の導出に利用する。英国のキングス・カレッジ・ロンドンの研究チームが最近発表したAIのシミュレーション戦争の実験結果によると、AIは危機的状況において95%の確率で核兵器の使用を決定した。道徳的な躊躇などなく、ただ勝利という最適値を導き出すために核ボタンを押したのだ。
AIはもはや道具ではない。人間の判断に代わり、制御できない危険として私たちの前に迫っている。AI開発の後発走者である韓国社会が注目すべきなのは、技術格差を超えたところにある。この技術が人間の尊厳と価値を守る境界を越えずに働くようコントロールする「ルールの主導権」を、世界の舞台でどのように握ることができるのか。その悩みに基づく一手に命運を懸けなければならない。