「雇い主が悪い人のように思われるのは望んでいません。優しくていい方です。ただ…」
Zさんはうつむいた。涙を見せないようにだ。その時、電話が鳴った。「Z、私のワイシャツ、どこにあるか知らない?」 Zさんはがばっと立ち上がって両手で丁寧に携帯電話を握り直した。「奥様、クローゼットの中を一度見ていただけますか? 私の記憶ではそこにあった気がします」
その日は休日だった。クローゼットの管理はZさんの仕事ではない。しかしZさんは電話での応対に慣れていた。「いつもこうして何かを探しているとか、連絡が必要な時があるんです」
■朝7時30分から夜10時まで働いても最低賃金未満
2025年12月に終了したソウル市のフィリピン家事管理士事業は、韓国社会の家事・ケア労働の実態を明らかにした。労働の待遇のマジノ線である「家事とケアの分離」原則を守らず、あらゆる家事を区別なく押し付けていたのだ。
ベビーシッターとして入国した労働者たちは「英語学習の支援」(37人)、「床の掃除」(21人)、「冷蔵庫の掃除」(13人)、「外のガラス窓などの高くて危険な場所の掃除」(6人)などをさせられていた(ソウル市女性家族財団による調査)。そうして手にした給料は月118万ウォン(実際の受取額、移住家事ケア連帯による調査)。「労働者搾取」という批判が高まったことを受け、ソウル市はわずか1年6カ月で事業を廃止した。
ソウル市の事業のみの問題だったのだろうか。ハンギョレ21は2020年から韓国で働いてきたフィリピン国籍のZさんに、困難な中でインタビューに応じてもらうことができた。Zさんもベビーシッター(Nanny)としての仕事を見つけたが、その家の家事労働を丸投げされた。単に仕事が多いということではない。事実上、雇い主のあらゆるニーズに応対する前近代的な契約形態が労働者の待遇を後退させており、過度な統制につながっていた。
「私の日課ですか? 家族の食事の支度、子どもたちの学校への見送り。家の中の掃き掃除に拭き掃除、子どもたちのおやつの準備、洗濯、掃除、塾の送迎、お風呂に入れて、あとは…」
Zさんはフィリピン国籍のベビーシッターだ。ソウル江南(カンナム)の雇い主の家に住み込み、週5日、一日平均12時間働いている。業務範囲は特に定められていない。「雇い主の家の中のすべてのこと」が彼女の仕事だ。朝7時30分ごろに始まる仕事が終わるのは、早ければ夜8時、遅いと夜10時。月給は230万ウォン(約24万5000円)。時給に換算すると約8300ウォンで、最低賃金を下回る。
「住み込みはほとんどが最低賃金未満です。24時間はりついてそこ(雇い主の家)での仕事をすべてやっているのに、もらえるのは200万、300万ウォン。だから韓国人は住み込みはほとんどやりません。数年前までは中国同胞が主にやってましたけど、あの方たちも少しでもお金ができれば部屋を借りて出て行こうとします。居住費が節約できるにしても条件がとても割に合わないから」。韓国労総家事・ケアユニオンのチェ・ヨンミ委員長はそう語る。
■家事労働を加えるには追加料金が必要だが
家事労働と子守りは2000年から別のサービスとして分離されている。2つの分野で求められる専門性が異なるからだ。例えば、家事労働の基本範囲は「掃除、食事の後片付け、ゴミの排出、洗濯」。料理などを追加するには事前の協議が必要となり、高齢者や乳児のケアはサービスの対象外(韓国家事労働者協会利用約定書)。逆に子守りの基本範囲は主に子どもたちの登降園と一時保育だ。料理などの家事活動は含まれない(性平等家族部ウェブサイトのベビーシッターのページ)。子どもの服の洗濯などの家事労働を追加するには、追加料金を支払う必要がある。労働範囲が無限に拡大したり、互いの領域を侵害したりしないようにする観点からのものだ。
しかし「人件費削減」を理由に移住労働者にケア労働を任せることが増え、この原則は徐々に崩れていった。ソウル市の事業の趣旨は子守り(「入浴、掃除、食事の世話など、子どもの個人的なニーズに応じた適切な家事サービス」)であるとうたいながら、家事労働(「同居家族のために付随的で軽い家事サービスを提供できる」)を職務説明書に記していた。労働者たちは「家事とケアの境界が曖昧になる」として反発していた。
結果は予想通りだった。2025年6月に開催された「不安な在留、排除された労働権」と題する討論会で移住家事ケア連帯により発表された21人のフィリピン家事管理士の調査事例によると、大半が、子守り(Caregiver)資格を持ちながら、あらゆる家事労働(Housekeeper)を押し付けられていた。「雇い主の要求でイヌの散歩をさせられ」たり、「雇い主の親戚の家に呼ばれて掃除をさせられ」たりしており、男性雇い主の性暴力の脅威にさらされていたケースもあった。
Zさんの労働も家事とケアの区別がない。さらには、雇い主がテーブルに置きっぱなしにした皿を片付けたり、子どもたちが床に落とした物を拾ったりといったことまでさせられていた。「本来、金曜日は午後7時に帰宅できるんです。夫にココナッツに漬け込んだ野菜料理を作っておいたと言われて、午後5時から楽しみにしていました。夫に『早く帰りたい。お腹がすごく空いた』とメッセージを送って。でも、7時を過ぎても雇い主は私を帰らすつもりがないんです。それまでご飯も食べていない私に『子どもを風呂に入れてくれ』、『夫のご飯の支度をしてくれ』とずっと言ってくるんです。自分はご飯を食べ終わってテーブルについているのに」
テーブルの上にはZさんが支度した夕食があった。それを温めるだけで済むのに、雇い主はまったく動かなかった。家事はすべて住み込み労働者の仕事だというのだった。結局、Zさんが帰宅できたのは、その日の夜9時過ぎだった。
「それぞれが暮らしていく中で責任を取るべき再生産労働まで、すべて家事労働者に押し付けられている状況です」。済州大学耽羅文化研究院のイ・ミエ学術研究教授は言う。「料理や掃除など、個人の日常生活を維持し、労働力を再生産する各種の労働を『再生産労働』と呼びます。他人に委託する労働の範囲を定めておかないと、すべてを労働者に押し付けることになります。家事・ケア労働は職場が雇い主の自宅であるに過ぎず、やはり雇用契約であるということを忘れてはなりません」
このような特徴のせいで、移住民による家事・ケア労働は「下人の労働」、「世話の外注化」という別名がつけられている。雇い主が自分の経済活動を維持するために必要とするあらゆる家の管理、調理、育児などを、安い賃金で押し付けられているということだ。住み込み労働はその中でも最も劣悪な労働だ。外見上は社会契約のかたちをとっているが、実際には個人の生活が丸ごと雇い主に従属している。
そのため国際労働機関(ILO)は家事労働者条約(189号)で「家事労働者が家事労働を行う家庭に住み込む場合には当該家事労働者のプライバシーを尊重する適切な生活条件を享受することを確保するための措置をとる」と定めている。香港、シンガポール、クウェートなどは政府の家事・ケア労働者保護ガイドラインも存在する。それでも労働者の過労死、うつ病、虐待による死が絶えないため、フィリピンとインドネシアの政府は一時的に派遣を中止するほどだった。一方、韓国社会はガイドラインどころか、労働実態すらも闇の中だ。働く人だけが内国人から中国同胞へ、フィリピンからの移住民へと知らず知らずのうちに変わったに過ぎない。
■体調崩しても診療諦めざるを得ないスケジュール
過度に統制されるのは仕事だけではない。感情表現、休息権、家族の世話にまでその範囲は広がっている。「一度、生理のせいで少し表情が暗かったみたいで。奥様に『何かあったの? 顔色が悪い』と聞かれました。私のことを心配したのではなく、家族の前なんだから表情を明るくしろってことだったんです。シャワーを浴びてから、にっこり笑って『すみません。顔が少し暗かったですよね? 少し良くなったように見えますか?」と聞いたんです。そうしたら奥様に『ええ、良くなったみたいね』とうなずかれました」
Zさんは最近、体調を崩した家族を病院に連れて行こうとしたところ、「社長」(男性雇い主)からも叱責された。「社長に『家にあなたがいないと、私の仕事が増える。分かっているのか』と言われました。診療を予約する前に毎回許可を取れって。定期診療は諦めました。病院に行ったら、その場で次の診療日を聞かれるけれど、社長にすぐに電話することもできないし、私に合わせてもくれないでしょうから」
雇い主がそれだけZさんに深く依存しているということなのだろうか。しかし、家で問題が生じると、最初に非難されるのもZさんだった。「奥様が自分の机に置いておいた書類がなくなったと言って、私を探していました。『私が片付けるわけがないじゃないですか。私は奥様が置いておいた紙は1枚も捨てません』と言いました。ゴミ箱も全部あさって見せて。奥様は結局その書類を自分の荷物の中から見つけたけれど、私にイライラをぶつけたんです。『私が何か言ったときは、ただわかりましたと言ってくれない?』って」
社会学者アーリー・ラッセル・ホックシールドは「ケアのグローバルチェーン(Global Care Chains)」を「感情帝国主義」に例えた。裕福な国の国民は生活の質を向上させるために、貧困国の移住民が訓練した感情、ケア、看護、労働、知識を天然資源のように安価に搾取しながら、肝心の彼ら自身のケア要求は無視しているというのだ。Zさんが頻繁に用いたのも「下位の(inferior)」という言葉だった。雇い主のあらゆる指示に従い、過度に統制されると、自身が下層階級になったように感じるというのだ。
このような状況にあってもZさんが仕事を辞めなかった理由は、安全だ。未登録身分であるZさんは、かつては古い工場で住み込みで働き、厳しい寒さと移住民取り締まりの恐怖に震えていた。共に働いていた夫は労働災害で倒れ、後遺症が永久に残った。雇い主の家はZさんにとって、それなりに安全な職場だった。
Zさんのような例は韓国社会でも珍しくない。フェイスブックのグループ「インターナショナル・ナニー・サービス」やベビーシッター仲介サイト「ナニージョブ」などには週に1~2回、求人広告が掲載される。時折「住み込みの家事労働者の賃金が高すぎる」という利用者の不満が、経済メディアの記事で紹介される。しかし、具体的な労働の実態は闇の中だ。2013年に首相室が国内の移住民の家事・ベビーシッターの規模を約6万人と推定したのがすべてだ。
■暖房のないドレッシングルームが唯一の休息場所
Zさんの過ごしている場所は雇い主のドレッシングルームだ。クローゼットの前にマットレスを敷いて、そこで寝ている。エアコンやヒーターがないため、夏は蒸し暑く、冬は寒い。仕事が終わって横になっても、家族が頻繁にクローゼットを出入りするため、どかなければならない。しかも、雇い主の帰宅が遅くなると、仕事が終わるのが無限に遅くなる。午前1時に帰宅しても、事前に知らせてくれることは少ない。
家事・ケア労働は家族の事情によって業務の軽重が千差万別だ。しかし、使用者と交渉する法的権限は労働者にはまったくない。「雇い主は電気料金が高いからと言って、浴室の換気扇や乾燥機を使わせてくれません。扇風機だけでは限界があるため、布団を洗い直すか、繊維消臭剤をたっぷり振りかけなければなりません。私にとっては二重、三重に仕事が増えるわけです」。Zさんが雇い主と調整したがっている案件は素朴だ。最低限の住環境を保証すること、家の清潔を保つための道具を使わせてくれること、契約条件を守れない場合は事前に知らせること。
■再生産労働をおとしめ国の保護から除外
移住労働者だけの問題なのだろうか。大半の内国人(韓国国籍者)の家事・ケア労働者も、自らの労働条件について使用者と交渉できない。労働者からなる韓国労総家事・ケアユニオンはあるが、彼らと向き合うべき利用者団体や職業あっせん団体は結成されていないからだ。「韓国は外国とは異なり、(家事・ケアの)利用者が自らを雇い主としてまったく認識していない」(チェ・ヨンミ委員長)。勤労基準法や最低賃金法などもZさんのような例を「家事使用人」と呼び、法律で保護すべき労働から完全に排除している。在留が不安定なせいで未登録の移住民の方がより過酷な条件に置かれてはいるが、内国人の家事・ケア労働者も生活を改善する権利を奪われているのは同じだ。
イ・ミエ教授は、このような慣行は「社会が長い間、生産労働の価値ばかりを集計するとともに、再生産労働の価値を排除してきたせい」だと指摘する。生活を支える再生産労働なくして生産労働は回らないもかかわらず、家事・ケア労働を長きにわたって「家事」として丸ごと女性たちに無給で押し付けてきた結果だというのだ。統計庁は2023年、未払いの家事労働の価値は491兆ウォンにのぼると集計した。女性の社会進出以降、家事・ケア労働も専門労働として分類されたが、それに見合った社会的保護は皆無だ。安価に搾取する慣行はそのままに、対象が移住民女性に移ったに過ぎない。
■「より多くの移住女性の証言が必要」
今からでも家事・ケア労働の価値を評価し直すためには、Zさんのような人々のより多くの証言が必要だとイ教授は考えている。「ケア労働について様々な声があがってくるべきです。そうなってはじめて『この労働はこのように扱われるべきではない』という反省が可能になるし、労働条件についても交渉できるようになるのです。フランスの場合、1930年代から雇い主の女性たちが女性解放の観点から家事・ケア労働者の権利を要求し、全国の使用者団体の設立と雇い主の義務協約を引き出しました。労働者と利用者、仲介業者、国が共にかかわる相互理解と交渉の場が作られたのです。国は利用者と労働者がその場に入って来られるように積極的に取り組みました。韓国社会もそのような段階を踏むべく、政府が役割を果たすべきです。そうすれば再生産労働が今より社会的に尊重されるようになると思います」