■北朝鮮に対する利敵の可能性をなくせ
韓国軍と警察が自国民に対してこのような恐ろしいことをしたのはなぜだろうか。
日帝強占期が終わった後も、大田(テジョン)刑務所は「窃盗犯」と「思想犯」でいっぱいだった。解放後、朝鮮半島の南側では左右対立が激化しており、李承晩(イ・スンマン)による単独政府樹立に反対する騒乱が広がるにつれ、収監者はさらに増えていった。1948年3月には1875人だった大田刑務所の収容者は、1949年には3041人にまで膨れ上がっていた。その中には麗水(ヨス)・順天(スンチョン)事件と済州4・3事件の関係者もいた。
李承晩政権は1949年6月5日、左翼からの転向者を「国民保導連盟」という反共団体に加入させた。「左翼を転向させて保護し導く」との趣旨だったが、実績に目がくらんだ公務員たちは左翼と関係のない人々までやみくもに加入させた。
1950年6月25日に戦争が勃発すると、内務部治安局は全国の道警察局に「要視察人全員を警察に拘禁するとともに、刑務所の警備を強化せよ」とする非常通報を送る。保導連盟に加入させられた人々は警察署、面事務所の倉庫、刑務所などに拘禁された。そして6月28日、コルリョンコルで最初の虐殺が起きた。
■父の恨(ハン)、解いてさえあげられたなら
イム・スンジェの娘のイム・ナムシンさん(73)は、出勤途上で永遠に帰れぬ道へと旅立った父を忘れたことはない。家族たちはイム・スンジェが「山内(サンネ)に連れて行かれた」といううわさを聞き、せめて遺体を探そうとしたが無駄骨に終わった。
息子探しに没頭していた祖父は、食を断った末に病んで亡くなった。家運は徐々に傾き、ナムシンさんが12歳の時に母親は再婚した。祖母の下で育ったナムシンさんは「両親を失った大田」が嫌いで大邱(テグ)に嫁いだ。
ナムシンさんは2020年12月に発足した第2期真実・和解のための過去事整理委員会に真実究明を申請した。2005年に発足した第1期真実和解委は、2010年に「戦時とはいえ、国民の命と財産を保護すべき国が、収監された在所者を左翼の前歴がある、または人民軍に同調することが憂慮されるとの理由のみで、適法な手続きもなしに射殺したのは、明白な違法行為」だとし、「その責任は当時の李承晩大統領と国に帰属する」と明らかにした。
しかし、現任のキム・グァンドン真実和解委員長は最近、朝鮮戦争前後の違法な民間人集団死亡事件の被害者が補償を受けることは「深刻な不正義」だと発言し、遺族の胸に剣を突き刺した。
コルリョンコルに2024年までに建設される予定だった「朝鮮戦争民間人犠牲者慰霊施設」は、着工さえできずにいる。2007年から現在までにコルリョンコルで発掘された遺骨は1441体。大田山内事件犠牲者遺族会と大田山内コルリョンコル対策会議は、2000年から毎年6月に「コルリョンコル虐殺犠牲者慰霊祭」を行っている。今年も27日にコルリョンコルで慰霊祭が開催された。
慰霊祭に参列したナムシンさんは、無念の魂を慰める宗教祭礼を見つめながら涙をぬぐった。真実和解委のキム・グァンドン委員長と大田市のイ・ジャンウ市長は、この日の慰霊祭には参列しなかった。2010年以降は毎年送られてきていた大田市長の追悼の辞も、今年はなかった。
父親と一緒に撮った100日祝いの写真を手に、ナムシンさんは泣きながら語った。「写真の中の父を忘れたことはありません。無念の父の死を明らかにできなければ、死んでも死にきれないと思います」