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[レビュー]「朝鮮半島を分断したのは、わが祖国米国だった」

登録:2023-06-10 08:22 修正:2023-07-01 07:21
朝鮮戦争研究の記念碑的著書『朝鮮戦争の起源』を書いたブルース・カミングス氏=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

『朝鮮戦争の起源1:1945年‐1947年 解放と南北分断体制の出現』『朝鮮戦争の起源2-1、2-2:1947年‐1950年「革命的」内戦とアメリカの覇権』ブルース・カミングス著、キム・ボム訳|クルハンアリ刊//ハンギョレ新聞社
 朝鮮戦争は続いている。1953年7月27日に調印された協定は、戦争を一時中断するという停戦協定だった。終戦は成立しなかった。済州島(チェジュド)から新義州(シンウィジュ)まで朝鮮半島全域を廃虚に変え、朝鮮半島の民衆に消すことのできない傷を負わせた朝鮮戦争は、いつどこで始まったのか。ブルース・カミングス氏(80、米国シカゴ大学客員教授)が書いた『朝鮮戦争の起源』は、この問題に関する最も深層的かつ抜本的でパイオニア的な著書に選ばれる。1981年に出版されたこの著書の第1巻は1980年代に韓国語に翻訳されているが、1990年に出た第2巻は、長く韓国語翻訳版が出されなかった。国内外をあわせて最も卓越した朝鮮戦争研究書と評されるこの記念碑的な著書が、完刊後33年ぶりに韓国語で全貌を表した。韓国語版は、全3冊(第1巻、第2-1巻、第2-2巻)で合計2000ページに達する膨大な分量だ。カミングス氏は完訳版に、この本を書くことになった契機と所感を明らかにする長い序文を付けた。

 「起源」は「開始」とは違う。カミングス氏以前の研究書は、誰が戦争を始めたのかを明らかにすることに焦点を合わせていた。カミングス氏は「誰が先に撃ったのか」を問う前に「なぜ撃たざるをえなかったのか」を問わなければならないと述べる。それでこそ、朝鮮戦争の性格を適切に究明することができる。全面戦争がさく烈する2年前から韓国で広がっていた遊撃戦と38度線で起きた局地戦によって、すでに10万人あまりの死傷者が出ていた。そうした事実を考慮すれば、1950年6月25日の銃声がどこで先に鳴ったのかを問い詰めることは、二次的な問題にならざるをえない。重要なのは、戦争の起源を明らかにすることだ。カミングス氏は、その起源は、1945年8月15日の解放(日本の敗戦)から1年あまりの間に、さらに狭めれば、解放直後の数カ月間に形成されたと述べる。この本の第1巻は、まさにその時期を朝鮮半島内部と外部の力学関係の中で追跡する。

 カミングス氏が注目するのは、朝鮮半島内部の状況、特に数十年にわたる日帝強占(日本による植民地支配)があらわにした民族問題と階級問題をめぐる状況だ。解放直後、朝鮮半島は大きく2つの陣営に分かれていた。植民地の抑圧・収奪に苦しめられた小作農と労働者を中心とする民衆と、日帝と正面から戦った抗日闘士が、革命的な民族主義勢力を形成し、日帝の強圧政策の手足になった官僚、警官、軍人、総督府に協力した資本家と地主がその反対側を形成した。解放直後に圧倒的な優勢を示したのは抗日勢力だった。そうした状況を示すのが、中道左派指導者の呂運亨(ヨ・ウンヒョン)が中心となり8月17日に結成された朝鮮建国準備委員会(建準)だ。建準は一晩の間に広がっていき、朝鮮半島全域にわたり145の支部を率いた。さらに9月6日、建準の活動家数百人がソウルに集まり、朝鮮人民共和国の樹立を宣言し、引継ぎ政権を構成する指導者87人を選出した。絶対多数が植民地の監獄から出所した抗日闘士だった。

 2日後、朝鮮人民共和国は、李承晩(イ・スンマン、主席)、金九(キム・グ、内相)、金奎植(キム・ギュシク、外相)を前面に出した内閣名簿を発表し、左翼と右翼の連合に向けて進んだ。朝鮮人民共和国が9月14日に発表した宣言文には、朝鮮人民共和国の目指すところが明確に示されている。「日本帝国主義の残滓勢力を完全に追放すると同時に、われわれの自主独立を邪魔する外国勢力、およびすべての反民主的反動勢力と徹底的に闘争し、完全な独立国家を建設して真の民主主義社会を実現することを約束する」。この時期に全国の道・郡・面に人民委員会が結成された。人民委員会は、民衆の革命的熱望を表出させる通路だった。カミングス氏は「1945年に外国軍の占領がなければ、朝鮮人民共和国と人民委員会は、わずか数カ月で朝鮮半島を掌握できただろう」と断言する。だが、9月8日に軍政を始めた米軍は、左派勢力が布陣した朝鮮人民共和国を認めることなく、保守・親日勢力と手を握った。さらに、日帝の警察機構をそのまま再活用し、抗日遊撃隊を討伐した日帝軍人を集め、国防警備隊を創設した。

朝鮮戦争研究の記念碑的著書『朝鮮戦争の起源』を書いたブルース・カミングス氏=ウィキメディア・コモンズ//ハンギョレ新聞社

 注目すべき点は、ソウルの米軍政とワシントンの国務省は、常に意見が一致していたわけではなかったという事実だ。米軍政は、初めから38度線を共産主義に対する封鎖ラインに設定し、南側の革命的勢力を遠ざけた。特に、1946年秋の民衆蜂起を制圧した後、左翼勢力への弾圧を本格化した。ワシントンの国務省は当初、国際協力主義の原則にそって、米国・ソ連・中国・英国の4大国が参加する信託統治を通じて朝鮮半島問題を解決しようとしていたが、内部対立のなかで米軍政の反共・封じ込め方針を追認してしまった。朝鮮半島政策を主導していたのは米軍政だった。米軍政の指揮のもと、朝鮮半島は1947年にトルーマン・ドクトリンがソ連封じ込めを公式化する少し前の1945年末、冷戦が最初に始まった地となった。

 この本の第2巻は、1947年から1950年までの状況を追跡し、特にこの時期の米国の対外政策の変化を綿密にたどる。第2巻が出版された後に公開されたソ連時代の機密文書によって、スターリンが金日成(キム・イルソン)の戦争計画に関与したことが明らかになった。その機密文書を根拠にして、朝鮮戦争研究者の間から「カミングスはスターリンの役割を非常に低く評価した」という批判が出てきた。カミングス氏は「私が北朝鮮の独立性を過度に強調したのは誤りだった」と韓国語版の序文で告白しながらも、全体の論旨を撤回する意思はないことを明確にする。「ソ連はこの戦争に参戦しようとしなかったという私の主張は正しかった。(…)1950年後半、(米軍の北進によって)北朝鮮が最大の危機に陥った時も、スターリンはいかなる行動も取らなかった」

 カミングス氏は、朝鮮戦争が内戦から出発したという点を強調する。言い換えれば、朝鮮戦争は1つの国の内部で「革命か、反動か」をめぐり2つの勢力が行った市民戦争であり、革命戦争だったということだ。この内戦が、米国を含む外国勢力の介入によって国際戦争に飛び火した。米軍政とワシントンが、米国の覇権戦略によって南側の勢力のうち一方の肩を持つ過度な内政介入をしなかったならば、南北分断という悲劇は起きなかったと、この本は語る。まさにそうした理由から、カミングス氏は韓国語版の序文で「1945年以降、この由緒ある国を軽率かつ無分別に分断した米国の高位指導者」の過ちを追及し、「朝鮮を分断に至らせたのがわが祖国であったため、私はいつも責任を感じていた」と告白する。ならば、朝鮮戦争を終結させる責任も米国にあるだろう。

コ・ミョンソプ先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/1095225.html韓国語原文入力:2023-06-09 21:26
訳M.S

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