(1の続き)
高齢者のいる村はゆるやかに広がる家族
同苦同楽協同組合が計画する未来における高齢者の暮らしはこのようなものだ。高齢者は友人や村の若者たちと余生を送る。村がゆるやかに広がる家族になるのだ。「療養院は村単位で作らなければなりません。お年寄りが分離されずに村の子どもたちが育つのを見られるように。お世話が必要なお年寄りは療養院に移って、空き家を青年たちに長期で貸したり売ったりすれば、青年たちはそこに住んだり、起業空間として活用したりするわけです」
イ理事長が尚州面(サンジュミョン)にやって来て立ち上げたブログの名は「ソヨユ(逍遙遊)」、『荘子 内篇』の最初の章のタイトルと同じだ。そのように悠々自適に生きていくと思っていた。そのブログは廃業状態だ。都会に住んでいた時より忙しい。週7日働いている。協同組合が解決すべき課題が山積している。経済的安定を確保しなければならず、雇用も増やさなければならない。
「大変な時も多いですよ。でも、みんな分かっているでしょう。私たちの世代が作ったこの世界が持続可能ではないということ、子どもたちをこんな風に教育してはいけないということ、1%を除く99%の子どもたちを挫折せざるを得ない回し車の中に押し込めてはいけないということ。それでもその道を歩み続けているわけでしょう。不安だから。別の方法が思い浮かばないから。だから、このような共同体が可能だということを示すことが重要です。生き方を転換した10人が新たな10人を作って…。言葉にしてみるとネズミ講みたいですね」
2015年の時点で南海(ナムへ)は消滅危機第5位の地域だった。尚州面は人口の40%(702人)が65歳以上だった。この間、尚州小学校の生徒数は36人から2023年3月には63人に、中学校は18人から92人に増えた。2016年以降、200人あまりの保護者や青年が尚州に移り住んできた。42人ではじめた協同組合の組合員は220人あまりに増えた。
まあいいじゃないか、中学校卒業後1年休んだ息子
小学校6年生の時に南海にやって来た彼の息子は、2023年に山清ガンジー学校を卒業した。同じクラスの子どもたちより1歳年上だ。中学校を卒業後に1年休み、旅したり、農業をしたり、アルバイトをしたりした。建築家になるのが夢だが、大学に行くかどうか悩んでいる。「私は行くなと言っています。大学の学位なんて重要じゃない時代が来たと私は思います。自分だけができることを見つけて経験することが大切です」
彼は不安ではないのだろうか。「革新なんてできないかもしれません。それでもやってみたいことをやってみたわけですから。何とかなるでしょう」。彼は楽天的だ。「自尊心がしっかりとある」のだそうだ。農業をやっていた父親の影響が大きかった。「父はいつもこう言っていました。『職場生活がつらくてしんどいなら辞めちまえ! 父さんが飯は食わしてやる』」。その言葉がとても心強かったという彼は、協同組合は他人の描いた道ではない道を夢見る青年たちにとっての「寄る辺」となるべきだと考えている。
村のパン屋「ドンドン」を出て、協同組合の最初のプロジェクトの「想像の遊び場」まで歩いた。午後2時、まだ子どもたちは学校にいる。想像の遊び場のチョ・ヨン先生(44)が食卓に菓子を並べる。チョさんは6年前、子どもを尚州中学校に通わせるためにこの地にやって来た。
「○○、あ~そぼ!」 ああ、これができるんだ
「蔚山(ウルサン)に住んでいた時でした。うちの子には仲良くなりたい子がいたのに、学校が終わったらその子はどこかに行ってしまうんだそうです。自分もそこに通いたいって言うんです。その友達は福祉館に通っていました。うちの子も通ってもいいのかと聞いたら、所得がいくら以下じゃないとダメなんだそうです。そうやって分離されるんです。ここにはそんなのはありません。みんなが混ざり合って遊んでいます。都会に住んでいると、母親は子どもたちに友達をマッチングしてあげるんです。一緒の塾に通わせるとかね。そのパターンに入れなければ公園で一人で遊ぶんです。ここでは私が介入する余地がありません。ある日なんか、村の子どもたちが来て、うちの窓を叩いてこう言うんです。『おーい○○、遊ぼう!』 ああ、これができるんだ、って」
想像の遊び場の黒板にはサークルの時間が記されている。大人用だ。住民にギターが弾ける人がいれば、その人がギターを教えるというやり方だ。その中でも尚州公民館2階のオムサロンは有名で、学校の美術教師のオム・ギョングンさんから絵を学んだ地域住民たちが個展を開いたりもしている。
「尚州にこんな共同体があるということを知らなかったら、私一人では田舎暮らしやオルタナティブ教育なんて考えることすらできなかったと思います。まだ不安な時はありますよ。都会の人たちの話を聞くと、うちの子だけこんな風でもいいのかなと思って。私一人だったら不安だったでしょうけど、ここにはみんながいますからね。頼って生きているんです。ジョンスさん(理事長)が子どもたちをみんな育てたわけですし。その子たちを見ながら、大丈夫なんだなって思うんですよね」
学校の授業を終えた5、6人の子どもたちが「わぁ~」と叫びながら想像の遊び場に集まってきた。