1950年11月7日、某所で反逆者23人が銃殺された。議政府(ウィジョンブ)防御部隊第7師団から離脱した憲兵隊長のアン・イクチョ(1903~1950)中佐夫婦も含まれていた。自身が所持していた武器と戦闘情報を敵に提供したという罪状だった。彼は「愛国歌」を作曲したアン・イクテ(1906~1965)の兄だ。アン・イクチョは、東京に留学していた時、在東京朝鮮キリスト青年野球団でショートとして活躍した。東京帝国大学獣医学科と京城帝国大学医学部を相次いで卒業し、肺結核の専門医の資格を得た。最初の職場は、どういうわけかコロンビアレコード社だった。京城支店の文芸部長として、オーディション制度を導入してスターを発掘し、音楽団と楽劇団を設立し全国を回った。1937年に満洲国軍安東地区警備司令部の軍医として2年間服務した。除隊後には再び芸能界に入り、日本の植民地支配が終わる頃、病院を開業した。朝鮮戦争の勃発前は警官だった。アン・イクチョは親日人名辞典に名前が載せられた。
『特別な兄弟』は、アン兄弟のように近現代の激動期を生きた兄弟の13編の話を取り上げている。多くは、「大韓帝国」‐「日本による植民地時代」‐「解放と分断」などの歴史の流れに沿って語られる。兄弟のうちの一人か父親は名前の知られた人物なので、内容の半分はよく知っている話、半分はあまり知らない話だ。半分の知っている話の部分が読書のスピードを上げ、知らない話が興味を引き付ける。著者は、当時の新聞や雑誌などの原資料や先学の研究結果などの事実を組みあわせて淡々と並べるのではなく、人物の選択で著述の意図を強く示す。歴史は事件または制度の総合ではなく、「時代を生きた人々の人生」によってつくられているということだ。登場人物が境界線にいることを示すことで、親日と抗日、左翼と右翼などに二分する風潮に厳しく警告している。
弁護士として日本による植民地時代に独立活動家を無料で弁護したイ・イン(1896~1979)。朝鮮語学会の会員として活動して拘禁され、4年間の獄中生活の苦しみを味わった。解放後、米軍政期では検察総長、李承晩(イ・スンマン)政権では法務長官を務めたが、4・19革命の際には李承晩下野の要求声明に名前を連ねた。彼には悩みのたねである弟のイ・チョル(1917~1950)がいた。兄とは別の道を歩み、仏文学を専攻し南朝鮮労働党に加入した。解放後に左翼出版文化協会の企画部員など人民共和国で活動し、1950年春に西大門刑務所に収監された。朝鮮戦争勃発後に釈放され、ソウル市人民委員会の文化宣伝部で活動した。1950年9月28日の国連軍によるソウル奪還後、北朝鮮に渡り射殺された。イ・インの息子のイ・オク(1928~2001)と娘のイ・ドクキョン(1927~?)は、叔父の方に惹かれて南朝鮮労働党のML研究会で共に活動した。
平壌の有力者を父にもつチョン・ドゥヒョン(1888~?)とチョン・グァンヒョン(1902~1980)兄弟。兄のドゥヒョンは、金日成総合大学の設立を主導し、同大学の医学部長を務めた。ソウル大学法学部教授を務めた弟のグァンヒョンは、親族相続法分野の業績により大韓民国学術院の会員になった。それぞれ韓国と北朝鮮の最高の大学で活躍した兄弟は、生前は互いの存在について言及しなかった。
チョン兄弟と同様に、イ・インの家族は家族史をあえて明らかにしようとはしなかった。2018年に他界した文学評論家のキム・ユンシクは、欧州での学術大会で、パリ第7大学教授だったイ・オクと何度も会った話を文章に残した。文脈を読むと、イ・オクの家族の話は話題にならなかったようだ。キム・ユンシクが内情を知っていたのかは不明だ。ただし、イ・インとイ・オクの父子関係を取りあげ論じたところで止まっている。
著者は、植民地時代に忠清北道の知事を務めたユ・マンギョム(1889~1944)と国立ソウル大学の設置案を主導したユ・オクキョム(1896~1947)を通じて、彼らの父親のユ・ギルジュン(1856~1914)の開化思想がどのように屈折していったのかを示す。
国を売り貴族になった売国奴たちは、5代目まで爵位を世襲し、日本の皇族と貴族の学校である学習院に通い、欠員が生じれば帝国大学に無試験で入学できる特権を享受した。朝鮮貴族158人のうち唯一独立有功者になったミン・テゴン(1917~1944)。ミン・ジョンムク男爵の5代孫で、1940年代初期、抗日秘密結社に加わり投獄され苦しんだ後、後遺症のため28歳で死んだ。弟のミン・テユン(1924~)の努力により、2009年に大韓民国愛族章を授与された。